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読中日記(19)

前回…

季刊 真夜中 No.7 2009 Early Winter

リトルモアの文芸誌「真夜中」のNo.7で、長嶋有の連載小説がはじまっていた。「三十六号線」。第1話は「殺人事件」だった。(★結末に触れます)
《事件発生は四日前の、これくらいの時間。殴られたおじいさんは怪我をしたまま帰宅、襲われたときの状況を家人に告げ、その後ほどなくして意識を失った。家人はあわてて救急車を呼んだが病院で亡くなった。後頭部を強く打たれての脳挫傷。おじいさんの言葉によると、殴ったのは中学、高校生くらいの若者の集団だった。》pp10-11

 主人公は五十代の女性。夫とは離婚した。子供は手を離れ、北海道の田舎町で働きながら老父の面倒を見ている。
 事件の現場であるスーパーで刑事に聞き込みを受けたのがきっかけになって、ちょっとまえ、駐車場にたむろしていた不良たちの姿が不気味なものとして立ちあがる。刑事にすべてを話せないのは、彼女が学童保育の仕事をしているからで、かつて自分が世話をした子供が関わっているのではないかと想像してしまうからだ。
 以来、事件のことばかりが気にかかり、そこからつながって、子供たちが成長していった先の「分からなさ」、実際に遭遇したトラブルの回想などなどが彼女の頭を占めていく。何か気がかりが生まれると、考えることがみんなそちらに引っぱられていく、あの感じである。ところが。
《しばらくして捕まった、殺人事件の犯人は不良グループではなく、殺されたおじいさんの奥さんだった。
 スーパーマーケットの、だだっ広い静かな駐車場での血なまぐさい映像(想像)は、一気にかき消された。》p16

 不良グループの姿は、たしかに、もともと想像でしかなかった。その想像の根拠がウソだったと判明する。だから想像は「一気にかき消された」。
 ・・・でも、そのような間違った想像、いわば錯覚が、あとからきれいに「かき消える」とすることのほうがじつは錯覚で、いちどしてしまった想像は、もう消えないんじゃないかと思う。根拠がなくなったからかえって定着する、という気さえする。

 足場を奪われた想像は宙に浮くしかない。内容はともかく、かたちとしては「よかった、病気の子供はいないんだ」的な展開だが、重ねて思い出したのは、夏に読んだフローベール『感情教育』(1869)の一場面だった。

 田舎からパリに出てきたばかりの、まだ何者でもない青年フレデリック君は、成功した商人の若奥様にひと目ぼれ、会えもしないのに無理やり用事をつくって商店に通いつめ、夜な夜な街路から二階の灯りを見上げては、「ああ、あの部屋に奥様が・・・」と思いを焦がすのだが、ある日、何にも気付いていない鈍感なその商人から、話のついでに「ま、住居はここと別にしてるんだがね」と聞かされる。
《この場所のあたりのものの魅力がさっと失せてしまった。おぼろげにここにただよっているように感じていたものが消えてなくなった、というより初めから、ぜんぜんなかったのだ。彼は限りない驚きと裏切られた苦痛に似たものを味わった。[…]
 モンマルトル通りの角で彼は振り返り、二階の窓を見た。そして、あれをどんなに恋心を込めてたびたび眺めたかを思い出して、自分をあわれみつつ、胆で笑った。いったいどこにあのひとは住んでいるのだろう? こうなってはどうして会えばいいのか? 孤独の気持が今までにないほど大きく、彼の欲情のまわりに拡がった。》上巻pp66-7

 最後の一文の身も蓋もなさに笑うが、それはそれ。たとえあとから根拠がきれいさっぱり消されてしまっても、いったん想像されたものは――髪を解いて窓辺の椅子に腰を下ろした若奥様も、病気の子供も、おじいさんを殴り殺した不良たちも――、みんな本当に存在していたのだ。
 それも、想像した者(登場人物)の心のなかにいるんだよ、というのとはちがった仕方で、その想像をのぞき見た者(読者)にとっても、ずっと存在し続けると思うのだけど、そこを説明する言葉が私にはない。

 だって小説を読むのってそういうことだろ、と言ったら言い過ぎかもしれないけれども。ちくちくとこのようなシーンをメモしていくことにする。

…続き
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