--/--/--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2009/11/21

宮沢章夫『時間のかかる読書』(2009)

時間のかかる読書―横光利一『機械』を巡る素晴らしきぐずぐず
河出書房新社


 本を読むとき、もちろん自分はその本を最後まで読むつもりで読んでいるのだが、そしてそれは、イヤつまんなくなったらおれは途中で止めるよ? と威張るのよりも前の段階で、「本を読む」行為の基本姿勢としての「最後まで読むつもり」、いわば「終わりにむかう方向」をもって本は読まれるものだよね、と言いたいのだが、いま書いたすべてのこととはまったく別に、だからまったく矛盾せずに、実際に本を読んでいる最中、先のことは意識にのぼらず、ただ目の前にある文章をいま自分は読んでいるのだな、と自覚する瞬間がないだろうか。
「没入しているせいで時を忘れる」のともちがう、時間と切り離される感覚。
 すぐに消えてしまうけど、私にはたまにやってくる。ちょっと今度、本を読むとき気にしてみてほしい。

 横光利一の短篇小説『機械』について書き続けられた、本書『時間のかかる読書』は、小説を読んでいる瞬間、瞬間に生まれる考えを、「先に進む」ことによってなかったことにせず、ひとつひとつ文章に変え、文字として記録していく。その結果、私が最初に書いた、本を読んでいて「時間が消えた」と感じられる瞬間ばかりを丹念に拾い集めて厚い一冊にしたかのような、ほかに類のない読書の記録になっている。ページをめくってもめくっても、あのめずらしい瞬間の追体験が続くのだ。
 もちろん私には、宮沢章夫の意図はわからない。そんな本にしたつもりはなかったのかもしれない。でもそれを言うなら、宮沢章夫自身がいったい何をねらってこの連載を始めたか、いまではもうはっきりしないと繰り返していた(「はじめに」)。しかし時間のことはまたあとで書く。

 化学薬品を扱うネームプレート工場で働いている語り手の「私」と、工場の「主人」、先輩にあたる職人「軽部」に、あとから入ってくる「屋敷」。この4人と、ちょっとだけ出てくる女性2人。登場人物はこれだけ、限られた空間内で彼らの関係が変化していくさまを、「私」の視点からのみ眺めて記述する、おかしな小説。横光『機械』をまとめるなら、これくらいで充分なはずである。
 それなのに、おそろしく進まない読書だ。
 もともと月刊誌の連載で、1回の分量が単行本の2ページ程度で短いとはいえ、連載の終了までに132回かかっている。
 単行本化にあたり、最初に『機械』がまるまる再録されているほか、毎回の冒頭にその当時あった時事ニュースが記されており、たとえば、第1回は《ペルー日本大使公邸人質事件が解決》だし(1997年4月)、第26回では《ソニーが「AIBO」を発売》(1999年6月)、第66回だと《北朝鮮に拉致された日本人五人が帰国》ということになっている(2002年10月)。第93回で《愛知万博が開幕》などとあるのを見ると、つい、2005年3月のあのころ自分は、などと思い出してしまったりするけれどもそれはともかく、本文の内容はずっと変わらない。

 『機械』を読んでいる

 ほんとうに、読んでは立ち止まり、考えに考えてから少し進み、また立ち止まって考る、その繰り返しなのだ。
 小説の実物に取りかかるまでに丸4回かかったあと、冒頭の1行、「初めの間は私は私の家の主人が狂人ではないのかとときどき思った。」に見られる語り手のありようを考えるところから始まって、進みぐあいは1回につき小説本文の数行単位である。
 4年前の『『資本論』を読む』も、マルクスを読み続けるドキュメンタリーだったが、あれにくらべても、本書はずっと本文に密着する度合いが高い。
(『資本論』読書ノートの連載期間は、この『機械』読書ノートの連載期間の中にすっぽり含まれてしまう)

 だからこの本では、ぱっと見ですぐつかめる斬新な読みは示されないし、じつは小説とは関係のない自分の理論を展開する材料として『機械』の一部が巧みに利用されたりもしない。
 ただ、『機械』についていく。小説に従い、小説の進みに沿って、あきれたりとまどったりしながら、いま読んでいる文章のことだけをしつこく考える。「私」と同様に翻弄され、「私」にも翻弄される。文章はどんどん長くなる。そして結局は、面白がっている。
 宮沢章夫のこんな読みかたを見て、小説へのごくふつうの解釈というのは、作品を断ち切って下されるものなのだとあらためて思った。そのとき断ち切られるのは、作品だけではなく、読書の時間でもある。宮沢章夫は、切らずにおこうとする。その方法が、当たり前のようだけど、「続ける」ことだった。

 もちろん『機械』の分析も解釈もあるし、あるどころか過剰だが(だってこの本じたいが過剰のかたまり)、その場その場でなされる解釈は、それ以前に綿々と書かれ、それ以降も書き続けられていく文章の分量に押し流されて、どれも作品全体をまとめる言葉として特権化されることがない。一部分に注目したときの文章のありかたを、俯瞰した際の回数の重み(=文章の物量)が変えてしまう。
 相当にめずらしい事態だと思うが、具体的には、地味で地道な歩みだ。そのくせこの人は、こんなことも書くのである。
《この何回か繰り返し書いた「抽象」という言葉が、そう書くことですべてを単純化し、作品そのもの、あるいは、横光利一の手つきを理解する手だてとして、読み解くための安易な言葉になっているのは否めない。》第95回

 思わず笑った。このうえまだ「否めない」のか。この本のどこにも「安易」はない。むしろ逆だと思う。
 ――というのは、横光の『機械』という小説はどのように読めるのか、外側から解釈を求める見方に立つと、本書の中盤以降は、おそらく遅すぎて、鈍重であるようにさえ見えるからだ。
 たとえば、まだほとんど始まったばかりの第6回では、語り手の「私」について、「信用できない語り手」というよくある評言を横目にこんなふうに述べられていた。
《[…]語り手の言葉を手がかりに読者はその小説世界を生きるが、それがもし嘘だったとしたらどうだ。なにを信じていいかわからないだろう。異なる印象の世界を受け止めるしかないし、テクストは歪んだ形で伝えられ、それが技法として、「信用できない語り手」を生む。『機械』の語り手である「私」はどうなのだろう。
 「要領をえない語り手」
 そうかもしれないが、そればかりではない。》

 このへんの呼吸や言葉の選びかたはいかにも宮沢章夫的で、何がいちばんこの人らしいかといえば、不意に対象との距離を変えてみせる間合いの取りかただと思うのだが、このような余裕は、小説の後半、「軽部」と「屋敷」のあいだに勃発した諍いに「私」が巻き込まれるあたりから、だんだん見えなくなってくる。なぜか。

 『機械』を読むのに疲れてしまった

 そんなはずはないと思う。宮沢章夫はそれまで以上に小説本文に密着し、引用を繰り返すのだが、どれだけ読み直しても、『機械』の語りそのものが見通しのきかない代物になっていくだけに、それをこじあけようとする側の理路もにごり、文章は重たくなって、何を言いたいのか判然としなくなる。小説に沿う以上、この停滞は必然とも言える。それで宮沢章夫は、この停滞も「続ける」。
《まず、ここで注意しなければならないのは、「疲労」をさらに細かく分析している点だ。「その癖本能だけはますます身体の中で明瞭に性質を表して来る」という言葉があることで、いよいよ「疲労」の内容を複雑にしている。はっきり言って、なにを言いたいのかよくわからない。
 その「本能」とは、どの「本能」なのか。
 ここでは、先に書かれた「真鍮を腐蝕させるときの塩化鉄の塩素」が「人間の理性をさえ混乱させてしまう」と書かれた、「理性」に対置された「本能」だと思うが、前後をいくら読んでも意味がよくわからない。まして、その「本能」のせいで、「此のネームプレート製作所で起る事件に腹を立てたりしていてはきりがない」とはいったい何のことだ。
 やはり、「私」は疲れている。》第113回

「わからない」と繰り返しながら、横光の文章に絡む執念はいっそう増し、さらに多くの言葉が費やされる。小説の語り手、あの、どうかしているのではないかとこちらを不安にさせる「私」のくだくだしい言葉に入れ込んで、その論理を単純化せず、語り口、語る内容のおかしさを、どこがどのようにおかしいのか、「私」に負けないくだくだしさで、何度でも指摘していく。
 その末に、『機械』を語る「私」と、『機械』を論じる宮沢章夫が重なる――と書いてしまえば、これはいかにも予定調和で、それこそこの本の単純化でしかない。
 実際に起こっているのはもっと変なことである。それを私は、ねばり腰の変容、と呼びたいが、変わっていくのが「私」の語りなのか、宮沢章夫の文章なのか、両方を読んでいる私の目なのかが「よくわからない」。

 登場人物の関係を刻々と変化させていく、「私」の心理のメカニズム。それが『機械』という小説を支配する機械ではないか。これくらいの指摘はたぶんだれにでも、『機械』を実際に読んでいなくても、できる。けれども宮沢章夫は、『機械』の本文について延々書き続けるうちに、ときおり、このカギカッコがつかない機械のなかに入ってしまうように見える。

 それは時間の流れない場所だ。
 この本は、偽装された実況中継の顔をしている。偽装というのは、実際には断続的に11年かかって書かれているから、というよりも、たしかに実況、このうえなく実況なのに、そう受け取るにはあまりに長いから、という単純な理由のほうが大きい。それほどの分量になるまで「前回の続き」が書き継がれる。「読み終わる」ことを目標にしない読書。いつでも「読んでいる」最中である。それでも、少しは進む。するとまた続きが書かれる。文章は増殖する。
 そうやってパッチワーク式に実況が組み立てられていった結果、この読書ノートの内側では、外の時間の経過が感じられないということに、読んでいる途中で気づく。時間のかかる読書が読書の時間を消して、小説の進行だけが残る。読んでいるから小説は進む。でもそれについての言葉は、無時間の一点から繰り出されてくる。「最中」しかない。

 そんな印象を抱いて、それから、この本ははじめからずっとそうだったんだとふり返ったとき、『機械』と『機械』の読書ノートのどちらが小説なのか、不意にわからなくなる。
 浮かんでくるのは、語り手の「私」に成り代わるのではなく、「私」と並んで歩いている宮沢章夫の姿だ。でもそれは、たしかに見えたステレオグラムの立体像が視点をずらすと平面に戻ってしまうように、いちど本を閉じたり、「いくらなんでも考えすぎか」とわれに返ると、小説と読書ノートに分離する。
 気を取り直して、なかなか進まない後半を読んでいく。そのうちまた、小説が二重になって見えてくる。宮沢章夫の言葉のなかに、「私」と「軽部」と「屋敷」が潜行している。『機械』のあとについていく『機械』の読書ノートが、ゆらゆらしながら『機械』を飲み込みかけている。
 考えすぎてこその読書だ、と、わけのわからないことを言いたくなる。

 そして、唐突に『機械』が終わるのと同時に、この本も終わる。これにはおどろいた。だんだん残りのページが少なくなっていくのを目で確認し、左手の指に感じていても、もうそんな話ではない。
「読み終わる」ことを目指さなくても、読んでいれば、いつかは読み終わってしまう。そこにおどろく自分におどろいた。
 そして、この本は(というか、どの本も)最初のページに戻ればまた最初からはじまるということにまた感じ入った。

 そんなふうにして私は『時間のかかる読書』を読んだし、まだ読んでいる最中だ。


 ○ ○ ○
ほかの本:







追記:
 やっぱり書く。私が宮沢章夫さんの本を読むようになったのは、2000年の正月に古本屋の棚から『牛への道』が降ってきたからだが、すぐにサイトの日記も読むようになって、『機械』の読書ノートを連載中、ということも知った。
 だけど「それは単行本になってからまとめて読もう」と決めていたから、連載しているあいだは掲載誌には手を伸ばさず、ずっと待っていた。今回、ようやく一冊の本にまとまって、思うぞんぶん読めたからとても感慨深い、などと書くのはいかにもおおげさだけど、おおげさになる理由はほかにもある。
 というのは、待っているあいだも、毎月毎月ひたすら『機械』を読むという、地味かつ無謀な連載を続けている人がいるんだ、というのはずっとあたまにあって、そんなノートにあこがれる思いで私はトマス・ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』の読書メモをはじめたのだった。たしか2004年のことで、それが私のウェブ日記のはじまり。
 もっとも、それはたったの半年で挫折して、いまのこのブログではここにしまってあるだけだから、時間も量もぜんぜんたいしたことがない。
 まったくだらしない告白だが、ふつうは目に見えない「動機」なるものが、何年も経ってから一冊の本という物体になっているのを本屋で購入し、こうやって感想を書きながら手に取ってパラパラめくったりしているというのはめずらしい状況かもしれず、それでいまの自分の気持に「感慨」という言葉をあてても嘘ではない気がしているのだった。
 よくわからなくなってきたが、やっぱり本は読むべきだ。えんえん、読むべきだ。なんだこのまとめ。

コメント

非公開コメント

かんかく

この日記の冒頭にある「感覚」はたまに来ます。たまに来ますが、どちらかというと意識していない時にふとくるのでアレは気にするとこない気がしますどうなんだろう誰か気にしてみてください。

宮沢さんは間断なく11年間毎月連載をされたそうですが、doodlingさんは間断しつつ50年ぐらい書き続けてみたらすごいことになるんではないでしょうか他人事だから言ってみる。

そんな自分はまだ『時間のかかる読書』の2001年あたり。ちょっと時間をかけつつ読んでます。

そうかもしれない

> どちらかというと意識していない時にふとくるので
> アレは気にするとこない気がしますどうなんだろう
> 誰か気にしてみてください。

たしかに
「あ。いま変な感じだった」
と、あとから気づくことが多いような。
そこからさかのぼって「感じてるいま」を思い出しているのかも。

> そんな自分はまだ『時間のかかる読書』の2001年あたり。
> ちょっと時間をかけつつ読んでます。

その自制心がうらやましい。
読み終えたら感想を教えてください。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。