趣味は引用
読中日記 (14)


 保坂和志「未明の闘争」を読んで池袋に行った話の続き。

 前回の最後にした引用の次が下の引用だけど、と書いてみて、だれもそんなことおぼえていないと思うから、両方とも引用する。区切りを入れたが、実際には、ここは段落が変わるだけで切れ目なくつながっている。
D《明治通りとビックリガードをくぐってきた道路でT字ができる。五叉路のうちの三本はだから太い。あとの二本はだいぶ細い。T字を横にした┤の右に三角定規の直角を┤のタテ棒というのは南北のことだが、そのタテ棒に対して三十度の開きでくっつけた感じだ。右のこの二本は狭いからビックリガードを抜けてきた変則四車線の道路のつづきということはまったくなく、そこから来た車はみんな明治通りに入ってゆく。》

《右側の狭い二本の道で直角に仕切られたエリアはいまはジュンク堂書店が建っているが、そのときあったのは証券会社だった。そのエリアの上側、というのは北側の三十度の角度の三角州のようなエリアはいまはカラオケ館のビルがあるが、そのときあったのは五階建てのテナントビルで、屋上にローン会社のアコムの大きな看板が乗っていた。途中目立つものはないが、一階と二階がダンキンドーナツだったから目印のピンクとオレンジの縞の装飾が目立っていた。
 というその五叉路に私がもうじき着くタイミングでスクランブル交差点の信号がいっせいに歩行者青になった。時間は十二時半。》

 Dで「T字を横にした┤」という道のかたちが出てきて、Eではその「右側」に直角のエリアをくっつけるという説明がなされている。これって、視点としては俯瞰になるわけである。
 この小説、前々回の(12で書いたような「私は」の力業で対象との距離を消し、場面に没入するような始めかたをしながら、同時に、「私」の視点からではありえない俯瞰も混ぜてくるのである。没入と俯瞰はおなじ枠には収まらない。結果、書かれている内容が「とらえにくい」ということになる。
 そのうえ、次は《というその五叉路に私がもうじき着くタイミングでスクランブル交差点の信号が》となるのだ。駅をむく「私」の視点に戻っている。

 私は読んでいて、洗濯機のなかでかき回されているような思いがする。私はそのときジュンク堂に入り、1階雑誌売り場の「群像」でもういちど「未明の闘争」を読み直した。
 上記のようにこちらを撹拌してくる記述で気持悪くなっているのに加えて、さらに、小説の現場とほぼ同じ場所に自分がいるせいでますますおかしな気分になる――かと思ったら、意外にも、位置関係がわかったおかげで「未明の闘争」冒頭2ページはすんなり読めるようになっていた。

 ということは、1種類の視点(認識)では把握できない書き方がされている文章を、私は現場に立つことで理解可能なものにしてしまったわけである。これは、しないほうがよかった気がする。小説は文章だけでできていて、文章のとらえにくさを現実の情報で埋め合わせるのは、なんだろう、お店で食べた味をグルメサイトの記述で補完するような(いや、逆か?)本末転倒だった気がする。
 私はその日、それからビックリガードの下をくぐり、池袋の駅の反対側に出てしばらく迷った。でも、現実の土地で迷うのと、小説の変な記述を読み迷うのとでは、感覚がぜんぜんちがう。
(後者のほうが軽く吐き気をおぼえさえするのは、あたまのなかだけで迷い、体感が伴わないからだと思う)

 それで、池袋に来る前の「とらえにくさ」を思い出しながらここまで書いてきた次第だが、Eのあと、「私」が大勢の人と一緒に横断歩道を渡る(現・ジュンク堂から西武のほうに渡る)シーンも面白い。最後のところだけ引用する。
《小学五年生ぐらいの女の子が大事そうに子猫を抱き、それをガードするように同級生らしき女の子が二人寄り添って歩いていた。胸にファイルを抱えた二十代前半の女の子が顔をやや上に向け、何かを暗記するようにぶつぶつ口を動かしているのが、子猫を抱いた女の子の十年後の姿に感じられた。》

 さっきまでは位置に関する視点が撹拌され、ここでは時間も撹拌されているように思う。少なくとも私は、一時に見た光景のなかにこんな時間の飛躍をとらえたことはない。そしてこう続く。
《ナースキャップをつけたまま制服に紺のカーディガンを羽織っただけの看護婦が私をうしろから追い越しそのまま小走りにファイルを抱えた女の子の前をかすめ、自転車の青年をよけると、その向こうに一週間前に死んだ篠島が右の方から歩いてきた。》

 これはちょっと鮮やかすぎるくらい鮮やかだ。そして「私」は、近くに立っていた知人の「長谷川信也」が、死んだ篠島から挨拶されるのを見る。
 どうしてこんな状況が、というのが徐々にわかってくるのは、「私」が西武の上階のカルチャーセンター(もと職場)に入り、そこにいた「戸田芳文」と話すあたりからだ。
《「篠島来たのか。」私は戸田芳文に訊くと、戸田芳文は力ない沈んだ声で、
「トイレ行って来るって、一回来てまた出てったんですよ。」
 戸田芳文というのはこんな時にも丁寧語を忘れない。篠島のショルダーバッグが戸田芳文の左隣の席に置いてある。篠島はこれを下げていた。私はさっき交差点でたしかに見た。ダンキンドーナツの前には長谷川信也がまだ突っ立っている。》

《ダンキンドーナツの前には長谷川信也がまだ突っ立っている》のが、いまの「私」に見えるはずがない。
 面白いのは、このような書きかたは、これより前のビックリガードと五叉路の説明も含めて、下手と区別がつかないということだ。でも私は、保坂和志がそんな作家ではないのを知ってしまってもいる。これもまた、当の小説以外の情報かもしれないが。

 そこで、位置と時間の変な具合について、逆にとらえてみる。つまり、位置と時間が脈絡なく混ざっていると受け取るのをよしてみる。
 そうすると、強引な「私は」で強引に場が設定されているために、客観的な視点(俯瞰は客観的だと思う)を使っても、記述の全体が「私」の気配を帯びる、すべてに「私」が充満している、という感じがしてくる。そんな認識のしかたがありえるのは、おそらく夢のなかだけだ。

(いま、しばらくがんばって、自分が夢を見るとき、位置関係を俯瞰してとらえる視点があるかどうかを思い出そうとした。が、いかんせん、いまは目を覚ましているのでよくわからない。そのような視点がたしかにあるとすると、この混乱した記述は、夢としては一貫しているとも言える。特に結論はない)

 そしてこのへんで、わずか3ページ前の冒頭の記述に戻ってみると、
《ずいぶん鮮明だった夢でも九年も経つと細部の不確かさが現実と変わらなくなるのを避けられない。》

 とあって、なんだはじめから夢だと書いてあるじゃないかと気づいたのである。初読時の私はそれを忘れていた。
 そうすると、このあたりの全体に書かれてあることは夢じゃないのか、という思いつきは、どの時点で私に生まれたのか。それはすでに知りようがない。もういちど、初めて読みたい。それは無理である。

「私」が夢から覚めたあとの記述は、ここまでに較べると格段に読みやすくなる。格段に読みやすいのに何事か不穏な気配が漂っているからどきどきするのだが、それについてはまた来月、続きを読んで考える。




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(2009/10/07)
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