趣味は引用
読中日記 (11)


 すごいものを読んだので、これまでの日付を無視して更新。
 
 保坂和志のあたらしい小説「未明の闘争」が、「群像」の11月号から連載開始、と知って買いに行き、さっそく読んだんだけどその話はまた今度、買ってきてはじめてわかったのは、この11月号で小特集“知られざるウラジーミル・ナボコフ”が組まれていたことだった。

(あ)未発表の初期短篇「ナターシャ」の翻訳と解題(沼野充義)
(い)ブライアン・ボイドのエッセイ(秋草俊一郎訳)
(う)若島正の評論

(あ)はまあ、なるほどナボコフであるなという鮮やかな短篇だった。ロシアを追われた父娘。幻影。上記の保坂和志と表面的にかぶってるように読めなくもない部分があったりする(1枚めくるとたぶん全然ちがう)。
(い)のブライアン・ボイド氏はナボコフ研究の世界的権威でこれとか参照)、この人が学生時代からどのようにナボコフ作品にアプローチしてきたか、ひいてはナボコフの死後、どうやって未亡人と息子の信用を勝ち得て今はどんな仕事を進めているかという、専門家としての半生記みたいなものになっている。
 ここまではふつうに読んだ。すごいというのは、(う)の若島正である。

 こちらのブログこの記事を見るとわかるように、ナボコフには死の直前まで書いていたThe Original of Laura (『ローラのオリジナル』)という小説の草稿があった。
 ナボコフの草稿はいつも小さなカードに書かれたそうで、『ローラのオリジナル』の場合、未完成のままついに浄書されることなく終わった138枚のカードの山は、ナボコフ本人が「燃やすように」と伝えていたのに、じっさいには妻から息子へと受け継がれ、結局、作家の没後32年を経て、来月11月に書籍としてまとめられ出版されることになった。
これだ。なんでも、本来そうだったカードの形に切り離せるようミシン目がついているとかいないとか)

 若島正はこの断片の集積から、完成しなかった『ローラのオリジナル』の全体像を、「こうではなかったか」と復元してしまうのである。
 はじまるといきなり、1枚目のカードの1行目から駆使される、ナボコフの玄妙な語りを読み解く。つまり、「このような技法である」という説明と、その解読を同時に行う。その延長・発展上に、小説の前半ほど草稿がまとまっていない後半部の姿を描き出して、総体としての『ローラのオリジナル』がどんな作品になりえたかを考えていく。そしてそして、さらにそこから、この一作に限らずにナボコフのむかった創作の方向をとらえることまでしてしまう。
 狭い読解から始まりながら、どんどん話がつながって大きくなっていく構成は流れるようで、最終ページ下段、ほとんど終わりの箇所で示される、人名を扱ったトリックは、そこだけ見たらこじつけみたいなものなのに、えらい急角度でこちらに突き刺さった。すごい面白い。
 これを読んで、まるで私は、存在しない『ローラのオリジナル』をすでに読んでしまった、しかもたいへんに面白い小説として読み終えたような気持にさえなった。ここにもう一篇の「青白い炎」ができた、というのは論の途中で若島正が自分を茶化すように言っていることでもある。
「私」の消し方」というこの評論には、「ナボコフの未完長篇『ローラのオリジナル』を読む」という副題がついている。未完なのに読む、という不可能ごとを実行すると、どうやったって作者に誠実にはなりえない(実物を読んだつもりになってしまう私がその証拠だ)。それもあってナボコフは「燃やせ」と言ったのかもしれないが、しかし、だったらもうこの評論は、若島正の書いた小説、として読んでしまえばよいのじゃないかと思う。私はそうする。


「群像」、ほかのページもめくってみると、岸本佐知子の「変愛小説集II 」はお休みだったが、小山太一のピンチョンについてのエッセイがあったり(『V.』の新訳が進行中!)、古谷利裕の大江健三郎論が載っていたりして、読むところの多い号だった(変な言いかた)。
 先月号から『日本文学盛衰史』の続きになる「戦後文学篇」を開始した高橋源一郎は、きわめて高橋源一郎的に快調だった。



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