趣味は引用
読中日記 (10)


 いつもと同じ時間眠り、いつもと同じ量の食事をしたのに、なんだか体がだるくて重い。血管が詰まっているように感じ、心なしか耳の聞こえも悪い。どうしちゃったんだろう。
 という話をしたら、「気圧が低くなっているからじゃないでしょうか」と指摘された。生まれてこのかた、私の身体がそのような敏感さを発揮したことは一度もなかったので有頂天になる。「馬鹿に見えますよ」と注意された。


■ 9月22日(火)
《「生きる」ための言葉である詩を包み込むように、沢山の「生き延びる」ための言葉たちがある。》p184

対談集『どうして書くの?』が面白かったので、春に出たのに買っていなかった、穂村弘『整形前夜』(講談社)も買って読む。
 やあ、やっぱり面白い。笑えるなかにも、「生きる」と「生き延びる」のちがいが繰り返し述べられる。
《私たちが揃って安全に「生き延びる」ためには、新聞の記事に限らず多くの場面で言葉を殺す必要がある。殺し方のルールとしては「5W1Hをはっきりさせろ」とか、「結論から述べよ」とか、「空気読め」(これ自体は意外性のある詩的な表現だが)とか。学校教育や社員研修や飲み会の席で、我々はこれらのルールを学び続ける。全ては「生き延びる」という大目的に向かって言葉をツール化するためだ。
 また「生き延びる」ための効率上、「次の一瞬に全く無根拠な死に見舞われる可能性」などは丁寧に隠蔽される必要がある。今まさに死に直面した人間の目に映る一万円札はただの紙切れだが、全ての人間がその目をもっていては社会が成立しない。お金はちゃんとお金にみえないと困るのだ。
 というわけで、生に対して本質的に唯一の未知性である死の匂いを忘れた人間の言葉からは意外性が消える。死から遠ざかることで詩からも遠ざかるわけだ。そんな私たちは意外な言葉に出会うと不安になってしまう。死の匂いを嗅がされた気がするから。》pp184-5

 こんなことが「見えている」のにうなるし、こんなことを、寝て起きたらまた「生き延びる」の世界に戻るしかない私なんかに向けて「書いてくれる」のにもうなる。こちらのインタビューでもちょっと触れられていたけど、このような視点からチャンドラーの特別さを扱った文章もあって面白い。

・穂村弘は、こういう文章にドキドキしたくてお金を払う人間(つま先くらいは穂村サイドに足を踏み入れているんだと思う)だけではなくて、中学生一般を相手にしても、ちゃんとボールを投げていた。
『整形前夜』には収録されていないけど、教育図書の中学3年・国語教科書用に書き下ろしたエッセイでも、この人はいっさい手加減していないのである。タイトルは「それはトンボの頭だった」。
 われわれは「生き延びる」ために生きてるんじゃないんだ、とかいう話を、全国の国語の先生はどんなふうに授業したんだろうか。というか、そもそも授業に使ったんだろうか。
 以上は、私はたまたまそのコピーを持っている、という自慢ではないと思うんだ。


■ 9月23日(水)

谷川俊太郎『詩めくり』(ちくま文庫)をめくる。
 1月1日からはじまって12月31日まで、1日に1篇、366日ぶんの詩が入っている詩集(2月29日を含む)。たぶんだれもが、まず最初、自分の誕生日にどんな詩があたっているかを確認すると思う。
 しかしこれ、しばらくめくっているとわかるんだが、「うらやましい、この日が誕生日ならよかった」よりも、「この日が誕生日じゃなくてよかった」と思ってしまう詩のほうがずっと多い。さすがは谷川俊太郎。そういう意味では、私の誕生日はだいぶましなほうだった。
《くしゃくしゃに丸めて捨てられた紙きれ
何か書いてあると思って拾ってみたら
あかんべえと書いてあった
どうだいい話だろうと
ハムレット役の俳優は言った》


■ 9月24日(木)
《盗人を捕らえることはぜんぜん別の問題だった。それには、完全に了解されたルールの下で、もっとも勝れたものが勝者になるという、およそあらゆる形態のスポーツに付きもののあの真剣さがあった。アナーキストと交渉を持つにはルールというものがない。そこが警部には気に食わなかった。》p141

こないだ『闇の奥』を読んだ流れで、部屋の隅に積んであった、おなじコンラッドの長篇『密偵』を読みはじめる。土岐恒二訳、岩波文庫。

・イギリス、ロンドンの片隅でしみったれた店を営むヴァーロックは、じつは某国大使館に長いこと雇われているスパイだった。同居している妻にもその母にも身分を隠し、商店兼自宅の上階では、しばしばアナーキストたちの会合が開かれる。ところがある日、新任の上司が、ヴァーロックにグリニッジ天文台の爆破計画を押しつける。唐突だ! どうするヴァーロック!?――みたいな話。

・これも面白い。最初から終わりまで、視点がずっとひねってあって、出てくる人物全員は、「表」ばかりでなく「裏」も遠慮なくズケズケ書かれてしまう。結果、大使館員も美人妻も前科持ちの巨漢アナーキストも爆弾博士も知恵遅れの青年も、この小説ではみんな矮小ということになる。
・視点がひねられているという印象がどこから来るかといえば、原因は、文章がひねくれまくっている、というところにあると思われる。
 逆に言うと、ひねった文章を駆使して人間を描くと、「表」ばかりか「裏」まで見えるようになるのかもしれない。それでも、読んでいて、「あまりの皮肉っぷりに嫌になる」ことがなかったのは、俎上にあがる人物が次々入れ替わっても、その視点が一貫しているからだろう。それはそれで、ひとつの誠実な態度に見えるのだ。
 ただし、何が書いてあるのか理解するのに2、3回読み直さないといけない部分はたまにある。
《ヴァーロック夫人が追っているのは、彼女のほうで忠実に支払ったスティーヴィーに対しての七年間にわたる保証、ついに他人にはうかがい知ることのできない信頼感へ、淀んだ淵のようにわだかまる奥深い家族的感情へと発展していった保証の幻像であったが、そのように厚い皮膜で護られた淀みの表面は、恥知らずにも誘うような目をし、まったくの馬鹿でない限りどんな女でもぽおっとなってしまう背徳的な清澄さをその視線にたたえていたたくましい同士オシポンでさえ、たまにそこを渡るぐらいでは、戦慄のさざなみひとつ立てられなかった。》p352


■ 9月25日(金)

・いちおう日付に沿って書いているが、450ページある『密偵』を1日で読了できるはずがなく、この日も次の日も読んでいたような気がする。
 この日記にウソはないが、まちがいはたくさんある。当たり前だそんなの。




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