2009/10/06

読中日記 (9)



■ 9月19日(土)

・髪を切ってもらいに行ったら、駅の向こうに「いまどき珍しい、看板娘のいるお店」があると教えられた。「しかも、インドカレー屋。インド人」。

ジョゼフ・コンラッド『闇の奥』の新訳(黒原敏行訳、光文社古典新訳文庫)が、ネットやら何やらでかなり評判がいいのを見て読みたくなり、買ってくる。
 岩波文庫版は読んだはずだけど、たぶん多くの人と同様、そのあとで映画「地獄の黙示録」を見てしまったために、どこまでが小説の内容だったかわからなくなっている。

『闇の奥』はイギリス、テムズ河の河口に浮かんだ船上で始まる。船員である「私」が、やはり船員である謎めいた男・マーロウの話を聞くというスタイルで、語り手はすぐに「私」から「マーロウ」にスライドし(ときどき戻る)、彼がいぜん訪れた、アフリカ奥地での体験談が続いていく。

 かつて貿易会社にもぐりこんだマーロウは、コンゴ河を蒸気船でさかのぼるよう指令を受けた。それに従っていくうちに、どうやら、クルツという優秀な社員がずいぶん前から上流地域に入ったまま戻ってこなくなった、自分はその事情をさぐりに行かされているようだ、という背景を理解していく。強すぎる日差し、生い茂るジャングルと熱病、部下は人食い人種だったりもするなかで、マーロウは何に向かっていったのか、そしてクルツとはだれか――みたいな話だったと記憶する。

 じっさい読み直してみると、小説はそんなに長くないのにマーロウが出発するまでが意外と長い、というのがまず発見だった(それさえも発見だと私は強弁したい)。
 今日読んだところではまだクルツに会ってないんだけど、それこそ「暗黒大陸」のイメージそのままの未知なるコンゴをありありと描き出す文章にしびれる。異郷をイメージに沿って描き出すのはあまりよろしくない(正しくない)ことなのかもしれないが、ここで読むべきは、イメージに言葉で触れる、この独特の感じだと思う。
《俺は海岸を眺めた。船の横を通り過ぎていく海岸を眺めていると、謎をかけられているような気がしてくるものだ。眼の前の陸地が微笑み、眉をひそめ、誘いかける。雄大だったり、醜悪だったり、平凡だったり、荒涼としていたりする風景が、沈黙したまま、“さあ答えを見つけにおいで”と囁きかけてくる。あの大陸の海岸にはほとんど特徴がなく、まだ出来上がっていく途中のような生硬な険しさがあった。白波に縁取られた海岸線が、定規で引いたようなまっすぐな線を描き、ほとんど黒に近い濃い緑色の巨大な密林が、忍び寄る靄で輝きが曇っている青い海に沿って、遙か遠くまでずっと続いていた。》p34

 太字にしたのは私。こういうのがたまらない。

・殺し屋の映画らしい、というだけの前情報で、ジム・ジャームッシュの新作「リミッツ・オブ・コントロール」を見に行く→公式
 きっとカッコいいんだろうなあと予想していたら、たしかに、しかも予想以上にカッコいいのでニヤニヤしながら見る。不可解な依頼、いつでも自分のルールを崩さない主人公、謎めいたメッセージを伝えては去っていく人びと(半分以上は女性。美人)。
 なんだか村上春樹を逆進化させたみたいな印象。「怒る人もいると思う」というのがまたハルキムラカミっぽい。前作「ブロークン・フラワーズ」で主演のビル・マーレイが今作にも出ていて、役柄のギャップが味わい深かった。

・男女を問わず、外国の俳優の顔と名前がおぼえられなくて、ゆえに映画が苦手、という人間は私のほかにもいると思う。ニコラス・ケイジとかブルース・ウィリスくらい特徴がないとわからない。いかに毛髪が人の目を曇らせるかという話。


■ 9月20日(日)

・晩ごはんのために外出。きのう聞いた、「看板娘のいるインドカレー屋」をさがして入る。満腹して帰宅後、ネットのグルメサイトでさっきのお店を探してみると、実際に行った客のコメントの、じつに10割が例の看板娘に触れていた。どうかと思う。自分も含めて。
・考えたら、本物の看板娘を見たのは人生で初だ。


■ 9月21日(月)

コンラッドの『闇の奥』を最後まで読んだ。出てきた感想があまりに単純で、「こんなんでいいのか」と首をひねりつつ、とりあえず書いてみる。

・この小説、人に説明しようとすると、
【1】コンゴの奥地に引きこもって動向がつかめない、クルツという男がいる
【2】船員マーロウが、そのクルツに会うよう命じられてコンゴ河をさかのぼる
【3】あとになってマーロウが、その体験を「私」たちに語る

 ――という順番になると思うが、小説の実物では上の番号はぜんぶひっくり返り、【3】→ 【2】→ 【1】の順で出てくる。
 河をさかのぼる、というのが小説の進みかたと重なっており、だから何らかの事情で船が停滞してしまうと、イコール小説の進行がよどむ、ということになる。わざわざ書くこともないくらい当たり前の道理なんだけど、この一致ぐあいになぜだか感じ入った。
 これはおかしな感想で、だってこういうふうに見るなら、たいていのミステリ小説も、捜査の進みゆきと小説の進行が一致している(捜査が行き詰まると小説の進みがよどむ)ということになり、『闇の奥』はどこも珍しくない平凡な作品だということになる。
 ところが私にはそうは思えないわけだから、私はこの小説に何かしらの特別さを見ているはずだ。それは何だろう。

・『闇の奥』では、「謎の捜査」よりもずっと単純な、「いっぽんの河をさかのぼる」という、文字通りいっぽん道の進行にのみ従って小説の大部分がすすむ。そのせいでよけいな装飾が削ぎ落とされて、何かの原初に触れているように見える、ということだろうか。って、その「何か」がわからないと意味はないのだけど、わかっていたら書いている。
(いっぽん道の進行で、しかも、一行進むごとに小説ができていくという感覚がその「何か」である、とすれば話は簡単なんだが、簡単にすればいいというわけでもない)

・いっぽん道いぜんに堂々めぐりしている私をおいて、『闇の奥』では、上に書いたさかのぼりの順序、【3】→ 【2】→ 【1】に先立つ【0】として、クルツの来歴や信条があらわれる。
 そこのところの濃密な記述を読む私は、この男に対面するマーロウになっているのか、マーロウの話を聞く語り手の「私」になっているのか。読んでいたときのことを思い出すと、同時に、どちらにもなっていたんだろう。
 わざわざ語りを二重化しておいたからこそ、それを合一するという技が使えたんだね、とか醒めたふりをしても何もいいことはない。夢中になって読みました。
《俺はもう一つの魂を救うために、執念深く侵入してくる魔境の襲撃を一人で食い止めなければならないと思った。あの遠い場所で聴いた言葉――じっと静かに耐えている背後の密林の中で頭に角をつけた男たちが火明かりを背にうごめいていた時に聴いた彼の切れ切れの言葉が、俺のもとに戻ってきて、あの不吉で怖ろしい簡潔さでふたたび聴こえてきた。》p181

 たまりません。《あの不吉で怖ろしい簡潔さで》というのが特にいい。

 こちらが読んでいくのにつれて文章が小説になっていくという、当たり前すぎて見えなくなっている工程を、どういうわけだか前景化してしまう小説が自分は好きなんだなあとあらためて思った。漱石の『坑夫』とか、フィリップ・K・ディックとか。



闇の奥 (光文社古典新訳文庫)闇の奥 (光文社古典新訳文庫)
(2009/09/08)
ジョゼフ コンラッド

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