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2009/09/12

読中日記 (7)


《ピンチョンの「重力の虹」なんか カッコつけて 上巻読んでから 下巻買うつもりだったんで ついに絶版になって買えなくなっちゃった》

 ↑こんなセリフもある、『思ってたよりフツーですね』の第1巻を楽しく読み終えたあと、翻訳小説関係のイベント、「豊崎由美アワー 読んでいいとも!ガイブンの輪vol.4 ゲスト:榎本俊二」が、とっくに告知されて参加者を募集していたあげく、すでに終わっていたのを知る(→これ)。ぜったい行くつもりだったのに、まさか知れないとは。
 それにもおどろいたが、前回の「ゲスト:岸本佐知子の回」からすでに3ヶ月近く経つのにもっとおどろいた。あれは夏の初めだった。時間がすぎるのはこんなに速かったっけとおどろきながら、実家から届いた梨をむいて食べているんだから世話はない。梨はうまい。


■ 8月31日(月)

ピンチョン『ヴァインランド』を読み終えた。
・437ページあたりから、小説が急にスルスルほどける感覚がある。
 小説は1984年のシーンから始まるが、それより以前にどんないきさつがあったのか、もろもろの事情がようやく結びついてくる。「ああ、だからこうなっているのか」という納得が続々とやってきてゾクゾクする。
 とはいえ、謎解きの快感、というのとはちょっとちがう。そういう気持よさもたしかにあるんだけど、もっと妙な感じのほうが大きい。

・ふつう、小説の「現在」時ははっきり一点に定まっていて、だからそれ以前のことは「過去」となり、そっちのことが描かれても、それは「現在」の説明となるためにあるわけだから、小説は結局「現在」に戻ってきて、生きているのは「現在」だけになる。一点の「現在」だけが先に進んでいく。
「過去」が「現在」に奉仕するというか。「過去」の山の上に「現在」が成り立っているというか。

・いっぽう、『ヴァインランド』の場合、「過去」にあたるはずの部分も「現在」にあたるはずの部分も、どこをとっても同じ生々しさがある。過去を現在とうまく切り分けられない。
 それは、たんに「過去」にあたるはずの部分が質・量ともにふくらみすぎて(珍妙な登場人物・奇体なエピソード)小説に占めるウェイトが大きくなったから、というだけのことかもしれないが、理由はともかく、そんな書きかたの作品を受けとめようとすると、こちらの構えはどう変わるか。

・これもまず単純には、「現在」としてとらえる時間の幅が広がって、極端な話、この小説にはいわゆる「過去」がない、ぜんぶが「現在」なんじゃないかと思うようになる。
 しかし、矛盾するようだが大急ぎで付け足すと、時間の流れはたしかにある。それは作中をとうとうと流れている。むしろ過剰にうねっている。
 だって『ヴァインランド』は、登場人物の視線の動きとか、話題の焦点のちょっとした移動とか、ごく些細なきっかけを入り口にして、時間を大胆にジャンプしたまま戻ってこないとか、ある人物の来歴が単純に過去べったりで語られていると思っていたら、当の人物がその後の時点からコメントを挟んできたりとか、隙さえあれば時間を折り曲げ、ねじり、くっつけ、織り合わせるのに血道をあげる――いや、すごく楽しそうにそういう技を繰り出してくる小説なのである。回想、連想、フラッシュバック。実現しなかった仮定、まぼろし、あきらかなウソ。なんでもある。

・ページをめくりながら、流れを流れとして(ただし、ひとまとまりのうちに)体感するのが、『ヴァインランド』を読むことだと思う。
(前回書いた、権力との戦いかたがどうこうというのは、すくなくとも読む側にとっては、二次的な内容でしかないと思う)
 そうやって読んでいると、「過去も含めて現在である」、「現在のなかには過去からの流れが含まれている」、つまり「みんな現在である」というふうに感じられる。

・時間の流れがあってはじめて成り立つのが、「あれがこうだったから」→「いま、こうである」という、〈因果〉である。逆にいえば、作中で〈因果〉が成立していれば、時間の流れがあることになる。

・『重力の虹』までのピンチョンは、もろもろの対立する〈図式〉〈構図〉の構築に力を注いでいた、そういった〈図式〉〈構図〉は無時間的だが、それでは不充分だということで、『ヴァインランド』では推移する時間の流れを取り込もうとした、そのための作戦が〈論理〉から〈因果〉へのシフトである――みたいなことを、『ヴァインランド』訳者の佐藤良明が、この本に寄せた論文「忍びのエクリチュール」で書いていた。
 最初に読んだときには「ふーん」くらいしか思わなかったけれども、いま、『ヴァインランド』のうねりが残っている体で読み直すと「!!」となる。

・原因から結果にいたる〈因果〉の流れがどくどく脈打っている「現在」でもって、『ヴァインランド』にしかない時間ができている。それを「くそ、あと15分で寝る時間だ」と思いながら読む私は、読書中、2種類の時間のなかにいる。

・変な話になってきた。
 さっき「生々しさ」と書いたけど、小説を読んでいて時間が流れているのをはっきり感じると、それを読んでいる自分も、「たしかに生きている」という気持がする。いや、なんだか気持悪いことを云っているのは重々承知だが、これも小説の話。

・「秋はやがて冬になった」とか、「それは今をさること三年前の出来事だった。当時、」みたいなことが書いてあれば、それだけで時間は流れたことになるが、時間の流れがあるのと、時間の流れを読者に感じさせるのには大きなちがいがある。

・時間を流すんじゃなくて、時間の流れが入っている小説、そういうものが、たまにある。作中に圧縮された時間の流れを、数秒、数分、長くても数時間で、読者にも追体験させてしまうような。

・まえに長嶋有の『ねたあとに』を読んだとき→これ、「友人の物真似を繰り返しやっているうちにだんだん変化していって、やがて独自の域にまで達する」経過が逐一書かれているくだりに、私は「これだ!これなんだ!」とわけもわからず興奮したのだったが、あれはまさしく、いまの自分が生活している場で流れている時間とは別種の、小説のなかでたしかに流れている時間を、こちらにいながら同時に体感していることからきた興奮だったんだろう。

・その一点で、表面上は相当に似ていない『ねたあとに』と『ヴァインランド』はつながると思うんだが、あまり同意は得られないかもしれない。だから書いてみた。


■ 9月1日(火)

・遅い夏休みをいただく。遅いのはぜんぜん問題ない。




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