趣味は引用
読中日記 (5)

 この古いノートパソコンにとっては、ウィルス対策ソフトがかなり重荷の模様。門番が大食らいで家計を圧迫、みたいなものか。

■ 8月23日(日)

・渋谷のユーロスペースで、チェコの人形アニメ「屋根裏のポムネンカ→公式、音が出ますを見る。監督はイジー・バルタ。チェコにはほかにイジー・トルンカという巨匠もいて(1969年没)、チェコアニメ特集みたいなイベントでまとめて上映されると、十中八九、混ざるのだった。

・ポムネンカは古い家屋の屋根裏に暮らす人形で、生活を共にするほかの人形やぬいぐるみ、ゴミのかたまりたちのアイドルである。いっぽう、この家屋にはほかにも「悪の帝国」があり、悪だから当然、ポムネンカを狙っている。
 これは面白かった。人形そのほか、物たちがにぎやかに動き回る世界は人間のそれとは別の原理で動いているようで(だって人形が動くんだから)ありながら、その境はきっちり分けられているわけでもないらしい。
 人形アニメという細かく厳密な作業の土台がけっこういい加減、というのはよい話だと思う。製作作業じたいがもつ説得力のおかげで、映画が設定上の支えを必要としなくなっているわけだから。
 屋内で発生する雨雲と洪水の描きかたがとくに気に入った。

・ついでに書くと、1ヶ月くらいまえに見た「ウォレスとグルミット」シリーズの最新作、「ベーカリー街の悪夢→公式のほうはいまひとつだった。なんだか話が単線すぎて拍子抜ける。
 29分で終わるこの新作のあとに旧作3本(「チーズ・ホリデー」+「ペンギンに気をつけろ!」+「危機一髪!」)がまとめて上映されたので、いっそう「今回はどうしちゃったんだ」の感は強まる。でも「ペンギンに気をつけろ!」のクライマックスは何度見ても感動するので満足して帰った。
・口内炎は治らない。


■ 8月24日(月)

・口内炎がますますひどくなり、食欲も失う。

ピンチョン『ヴァインランド』には、シンデルロと呼ばれる人たちが登場する。いや、人か? というのは、彼・彼女らは、死んでいながら成仏できず、ぼんやりしたまま現世にとどまっている亡者だからだ。幽霊かといえば姿は見えるし、生身の人間と話もできる。なんでそんなのが「あり」なのか!? といっても、そこにいるんだからしょうがない。
《「シンデルロって何なのかって? 正式には『シンデルロ的人格』っていってね。『シンデルロ』の意味は、『死んでいる、みたいで、ちょっと違う』」
「意味わかる?」タケシはDLに尋ねた。
「聞いた限りだと、要するに、みんな一緒にシンデルロ用のアパートとか、シンデルロ村のシンデルロ向けの家に住んでるってことでしょ。家っていってもユニット式ので部屋はガランとしてる。ステレオも壁の絵もカーペットも何もないし、家具類、小間物類、陶磁器類、食器類、どれもほとんど無に等しい。そういうことには関心ないんだ。[…] 」》p254

 たしか、現世に積み残したカルマの関係で人はシンデルロになるのだが――とか書きながら探していて、いま見つけた。シンデルロ誕生の合理的説明である。
《『チベットの死者の書』が我々に確約してくれるところによれば、死してまもない魂は、自分が死んだ事実をしばしば認めたがらないばかりか、躍起になって否定しようとする。人の死は無抵抗な出来事であって、死の国に入るさいに何の衝撃もなければ、あたりがちょっとばかり奇異に映ったからって、生前の世界も十分に奇異だったわけだから、気づかなくても、まあ無理はない。おまけに――とタケシは思う――このごろじゃ、TVのおかげで、生と死との境界はますます希薄になってしまった。ドクターもの、戦争もの、警官もの、殺人もの。〈TV〉では、過去数十年、人の死を軽妙なタッチで扱う番組が映され続け、それが〈死〉そのものの威厳までも奪ってしまった。まあ、媒体[メディア]という以上、死の国を媒介しても不思議はないといわれれば、それもそうではあるのだけれど。》p326

 書き出しの部分もいいし(確約て)、《生前の世界も十分に奇異だったわけだから》というのと、TVが《媒体という以上、死の国を媒介しても不思議はない》というところのユルい感じがとくによい。こういうユルさは、『V.』にも『競売』にも『重力の虹』にもなかった気がする。

・TVのせいで死の威厳が奪われる、というところで思い出した。数年前に量産された(今もか?)「大切な人が死んですごく悲しい。でも生き返った。また死んだけど私は生きていく。」タイプの映画のことを、殊能将之まとめて曰く、「泣けるゾンビ映画」。


■ 8月25日(火)

・シンデルロにも、「恒例の大パーティー」があるのである。
《毎年、シンデルロの社会では、幾世代にもさかのぼっての因果応報のパターンが立派な――すなわち罪と報いとが安定したリズムを刻む――長齢者を選んで表彰している。「立派」といっても、その物語は、どんどん複雑化する一方で、もともとの非業の恨みが何であったか、記憶が次第に怪しくなるうえに、現在抱えている小さな問題も解決の糸口すら見えないという、縺れに縺れたものである。一つの不正が次の不正へ、野球場で奏でられるオルガンの旋律みたいに変奏されていく、恨みに満ちた長い長い物語。そういう話がシンデルロは好きだったというわけではないが、それに対して敬意は表した。今宵の会の主賓こそは、シンデルロ界のエミー賞のウィナー、殿堂入りの名士、彼ら自身のロールモデルであったのだ。》pp327-8

《あったのだ》といわれても、「あったのですか」と受け取るしかない。あったのだ。ここでいわれる「因果の流れ」みたいなものが鍵らしいのだが、何の鍵かはいまひとつはっきりしない。

・「むかしこういうことがあった」→「だからこうなった」というのが因果だけど、『ヴァインランド』は「むかし」「その後」「いま」をごちゃごちゃにして語るせいで流れがつかみにくい――かと思えばその逆で、時間がスライドするのは「そういえば」「それというのは」というつながりに乗っかってのことだから、スライドするたびに、因果はエピソードを束ねるたくましい流れとして強調されることになり、ありありとそこに脈打っている。というか、時間を異にするエピソードのそのような並べかたじたいが因果の表現なのだ、と思う。
 が、シンデルロはきほん無気力なので、そういうことは教えてくれない。


■ 8月26日(水)

 パソコンが壊れた。おれが何をした(因果)。



ヴァインランドヴァインランド
(1998/12)
トマス ピンチョン

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