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読中日記 (3)

■ 8月15日(土)

・晴れた。
・ピンチョン『ヴァインランド』で描かれる1984年アメリカの構成材料には、「日本ネタ」も欠かせない。当然ながら、その日本はかなり変なニッポンである。登場する日本人の名前が文茂田武(フミモタ・タケシ)、という時点ですでに不吉な予感がたちこめるが、ピンチョンのネーミングは「国籍問わず、みんな変」らしいのでそれだけではたいして珍しくない。

・ダリル・ルイーズ・チェイスティンという女性が出てくる。略称はDL。この人の来歴をかいつまむとこんな感じ。
 子供のころから柔道・柔術に秀でていたDLは、基地につとめる父の仕事の関係で来日、いろいろあったすえに武道の達人・猪四郎師に弟子入りする。
《[…]DLは、丁重に願い出た。「どうぞあたしをこの屋敷に置いてやっておくんなせえ」。師匠は、「ほう」と面白がったようすを見せて、「今ここにおいでになったのが誰か、知っておるのか」とたずねる。
「ヤクザの親分、でしょ」
「金髪娘よ、おまえにまだその筋のことは早すぎる」
「ソノ名ヲ聞ケバ、ナク子モダマル、ヤマグチグミ」彼女は正確な日本語で引用した。
 優しさと嘲りとを同時にこめて、師匠はDLの肩に手を伸ばした。いけません、センセイ、と、たちまち弟子は隠遁の構えをとった。気合いも全身に満ちて、蹴りを入れるか肘鉄をかますか、相手の出方をうかがっている。「ムキにならんでよい、ほんの小手しらべじゃ」
「教えてください、ヤクザの世界と通じた師匠の下に弟子入りしたからには、あたしもこれから……」
「戦前からの義理があってな。ま、そこいらのことはあんまりいろいろ絡んでおるし、戦争も重く影を落としておる。話し出したら出てくる人名の説明だけで日が暮れるわ。だがな、おまえとワシとのあいだには、師弟以上の関係はない。そんなものは切ろうと思えばいつでも切れる。親の家から出てきたおまえだ、ワシのもとを去ることなどわけなかろう」
 エッ? ウソォ! あたしのことを罪に感じてるとか? 「去れとおっしゃりますか……?」
 師匠はカン高い笑い声をたててから、謎めいた予言をした。「おまえは去るだろう。だが、その日までは、ここにおるのじゃ!」
 こうしてDLのフルタイムの忍術修行が始まった。》pp189-90

 始まったんだからしかたない。猪四郎師は猛スピードで彼女に忍術を、しかも正統な忍術から外れた「下劣な術」の数々を伝授する。なかでも最凶の術が、こっそり秘孔に触れてからきっかり1年後に相手を殺す、《忍法一年殺し[ニンジャ・デス・タッチ]またの名を、震える掌》だった。

 そのごアメリカに戻ったDLは、殺人の依頼を避けて地味に生活していたころに《ピザハットの駐車場で誘拐されて、白人奴隷として日本に連れていかれ》、オークションにかけられたあげく《悪名高き「春のデパート」》で働くことになり、ほんとはもっと入り組んだ事情があってそれは省略するけど、ともかく、仇敵である男に術をかけるはずがまちがって別人に一年殺しを決めてしまい、つぐないのため他人のカルマの矯正を業務とするオフィスで働くんだけどそろそろ要約するのが嫌になってきた。

・タランティーノの映画「キル・ビル」(2003)を見て最初に思ったのは「これって『ヴァインランド』みたいだ!」ということで、いま「キル・ビル ヴァインランド」でググってみたら同じような感想を抱いたかたがたがやはりいた。

・「キル・ビル」-『ヴァインランド』の関係は、町田康『パンク侍、斬られて候』しりあがり寿『真夜中の弥次さん喜多さん』の関係に近い。
 説明にならない説明だが、ずっとだれかに言いたかったことなのでここに書いてみた。
・もう寝る。


■ 8月16日(日)

・晴れた。
・めったに行かない表参道まで行ったのは、小さいギャラリーで開催中の展示を見るためだったが、サイトにあった地図がひさかたぶりに「かっこいいせいで本当に役に立たない地図」で、えんえん迷っているうちにむしろ楽しくなってくる。惜しむらくは、ようやくさがしあてたギャラリーが小さすぎて、何か感想をもてるほど絵が置いてなかったこと。
・めずらしい場所を歩きまわったせいで疲労困憊。部屋に帰っても読書はあまり進まない。

・『ヴァインランド』の文章は、やたらとごちゃごちゃしている。コース料理を大皿一枚に載せて出されるような、しかもそんな大皿がつぎつぎ運ばれてくるような印象をもつのは、一文・一段落のなかに複数のエピソードが圧縮してあるという書きぶりのせいだが、たんに「一段落中にも出来事がたくさん詰め込んである」というの多さだけではなく、それらてんこ盛りの出来事のあいだでぽんぽん時間が移動するために、ごちゃごちゃ感はさらに増す。

・はぐれ忍者のDLは、かつてフレネシの仲間であり、いまフレネシを追いかけている娘のプレーリィとたまたま出遭う。
 現在(1984年)のプレーリィとDLが、フレネシの情報をさがすシーンがある。そこをきっかけに小説は、DLとフレネシが行動をともにしていた過去(たぶん1970年前後)に巻き戻され、さらにDLの生まれ(終戦直後)にさかのぼる。それからDLの成長過程が語られるが、ただでさえ波瀾万丈な話は、しかも順番通りには進まず、その合間に、大人になってからの彼女が母親(ノリーン)といっしょに往時を回想する姿(たぶん1980年前後)がはさまれたりもする、といった具合。
《ノリーンは唇を噛んで、睫毛の下から「どうして父さんを刺激するの。餌食になるのはあたしなのに」という意味の悲しげな視線を送る。「あたしもけっこうサディストだったね」。何年もの後、DLはあのころのことを振り返ってそう認め、訪ねていった母の前で告白した。「母さんがあんまり耐えてばっかいるんが気に入らなくて、それで父さんを焚きつけたのよ。どこまでいったら母さんも言い返すかって、そんなことを思ってた」
 ノリーンは肩をそびやかした。セントラル・システムのエアコンが暗い緩慢な脈を刻み、フリーウェイを走る車の呼吸が聞こえる。戸外の木々は亜熱帯の湿気のなかで重苦しそうにざわめいた。「あたしがあのころレーニエ大尉と会ってたことは、もちろんおまえも気づいてたろ?」
 「え? 父さんの上司の?」知らなかった。はじめて聞いた。そんなこと、あたしが感づくわけないじゃない。》p187

「サディスト」云々のセリフと、それに続く一文でもって、強引に時間が移っている。
 なぜこんな書きかたになるのか。過去から一歩ずつ現在へ、というお行儀のよい順番は、書いてるピンチョンには退屈すぎるのかもしれない。理由はわからないが、こういう書きかたから、ピンチョンの、というより『ヴァインランド』の、時間のとらえかたがうかがえる。

・現在は過去からつながっている。だから、現在の出来事が語られる際にも、必ず、それにからみあった過去の出来事までがごちゃごちゃひっぱり出されてくる。
 また、過去の出来事には、もっと古い過去の出来事とのつながりがある(過去から、さらに過去への方向)。それに、過去の出来事には、そこから現在までのあいだに何か発展があったりもする(過去から現在への方向)。

・そんなわけで、作中にひとつの出来事が持ち込まれると、連鎖して、つながりのある出来事が時間軸上のあちこちに発生する。でも、小説は単線的にしか進められないので(出来事は1個ずつしか語れないので)、「時間の移動」は、「脇道にそれる」かたちでなされる。
 あんまりひんぱんに脇道にそれるため、しかも、さまざまな脇道にそれる(=さまざまな時間に移動する)ため、読んでいると、しだいに「脇道」と「本筋」の区別がつかなくなってくる。
 いや、でも、1984年の話が現在で、だからそこが「本筋」だ、と考え直すことはできる。しかし、過去を現在から切り離せないなら、脇道だって本筋から切り離せないはずで、だからすべて本筋ということもできる。

・『ヴァインランド』の、変幻自在に時間移動しながら進む文章は、読んでいるとかなりうねうねしていて独特に感じるが、それによってこちらに伝えられる時間のありようは、意外なくらい自然であるようにも思える。たしかに、現在の自分のなかに、過去はこんなふうにごちゃごちゃ折りたたまれている。
 現在が過去とつながっているのは当たりまえだ。自分が属しているのは現在だから、過去は「ふりかえられる」ものになる。ふりかえられた過去は、時間軸上の前後につながりをもっている。これも当たりまえ。

・「どこまでを現在として、どこからを過去とするか」は視野の問題で、ずっと退いたところから時間軸をながめれば、現在の幅はかなり広がりをもつ(「最近は…」と言ってここ10年くらいの話をする人はよくいる)。
 そしてこの話は、「どこまでを本筋として、どこからを脇道とするか」という話とも並行すると思う。

・自在な時間移動という書かれかたから逆算される『ヴァインランド』の時間のとらえかたは、かなり自然といえるはずのものだ。なのに、できあがって目のまえにある小説は、なんだか変なものになっている。
 過去とつながっている現在という、時間の当たりまえのありかたを小説で表現しようとすると、『ヴァインランド』のように読みやすくはない文章が必要になるのかもしれない。
 ここから、小説という容れものはえらく不完全で不自然なんだ、とつなげるのはさすがに短絡的かと思ったが、でもそれもまた、当たりまえのことである気もする。

・もちろん、「ある過去の出来事のせいで、いまこの現在になっている」という因果関係は自明のものではなくて、「ある現在の出来事に、ある過去の出来事を結びつけるとそれが原因だったことになる」、というふうに、つながりはあとから作られるものでもある。
「現在と過去のつながりを作る」とは、「現在を作る」の言い換えだと思う。現在にどんな過去をつなげるかは、そのまま、現在をどんなものとしてとらえているか、になる。
 だから、現在のことを語りながら過去にさかのぼり、また別の時間をぐねぐね引きよせる『ヴァインランド』の文章は、ふつうに解きほぐせば中篇1本ぶんくらいになりそうな量のエピソードを数ページのなかで絡めあわせて、あたらしい現在を織りなそうとしているのだと思われる。

・もっとも、『ヴァインランド』の「ごちゃごちゃ」、「読みやすくなさ」は、時間の扱いかたがどうこうという以前に、詰め込まれる材料の無茶苦茶さ、雑多すぎるディテール、ジャンクなものへの過剰な思い入れに原因がある、と言ったほうが早いし正解である気もする。修業時代のDLに、猪四郎師がかけたお言葉を引用。
《「それだ、それじゃよ」説法が始まる。「まっとうな戦士になれず、下界に虫けらと暮らす我ら、十分の二秒という瞬時の判断をしくじり、その苦渋とともに一生暮らす、我ら臆病者、酒に溺れたウジ虫たち。そんなクズの我らには、いまおまえの見せたそのクズの輝きが必要なのじゃ。これぞ我らの闘い方じゃ。正統流から打ち捨てられた、暗黒の技の切れ味を漏らすことなく身につけるのじゃ。我らには我らの先祖があり、子孫がある。打ち捨てられた忍者の伝統を守っていくのじゃ」》p190




ヴァインランドヴァインランド
(1998/12)
トマス ピンチョン

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