2009/06/25

幽霊/-じゃないし (6)


前回…

 6月14日(日)にみにいった「ベケット・カフェ」の続き。
 
 最初に上演されたのは、「幽霊三重奏」のほうだった。事前に読んでおいた"Ghost Trio"である。
 これは「テレビのための劇」であるわけだから、それを舞台の上でやるにはどんな工夫をするのやら。そういう付け焼き刃の興味でいってみたら、まず、舞台と客席のあいだには、天井から白い布が垂れていた。でも布は薄いし、幅も舞台よりだいぶ小さいので、そのうしろもよく見える。
 
 戯曲を読んだ限りだと、縦長の長方形の部屋で、右の壁にドア、そのそばに男が座る椅子、正面の壁には窓、左側に鏡と布団、という配置だった。
 でも舞台は横長である。そこで今回の上演では、戯曲の部屋を90°左に回転させて、客席からだとドアが正面に見える格好になっていた。左に窓、そして右側が、もとは壁のなかったはずの面、ということになる。
 徐々に席が埋まってきたころに、幕のうしろに登場した男の役者がストレッチをはじめた。さまざまな柔軟。あの柔軟の真似を毎日し続ければ、背中全体を覆う私の凝りもほぐれるのじゃないか、しかしそれだけ体を動かすスペースがうちの部屋にはないのだよなと悲しく思いながら眺めていると、ストレッチは次第にエスカレートし、準備体操というにはあんまり激しい動きを見せてくれるのでおどろいた。なにせ壁を走りさえした、と書くに留めたい。

 ともかく、「テレビのための劇」だから、ほんらいはカメラで撮られた映像だけがこの作品の姿になる。なら、舞台であってもカメラは使うだろう。
 だから垂れ下がる白の薄布がスクリーンとして使われるにちがいないと考えていると、はたして右手にカメラマンが登場し、カメラの調整がてらストレッチする男を撮る。その映像は、やはり前面の薄布に映された。
 そのうち男は椅子に座り、さっきまでの奔放な運動がウソのように身を固め、「女の声」が聞こえてきて劇がはじまる。戯曲では3台あったカメラが、ここでは1台で、カメラマンの移動でもって代用するらしい。その人が薄布のうしろで近づいたり離れたりしながら男を映すという作業が客の私たちには見えており、同時に、薄布のスクリーンに映された男の像も見える。舞台の演技と、その実況中継を重ねて見せるんだと理解した。

 ただし、舞台に作られた部屋は、上述のように横向きになっている。それを右側から映しているから、部屋の左で椅子に座る男に向かって、カメラは右から左に移動して男に近づき、また右に下がったりと往復する。
 でも、当然ながらスクリーンには、部屋は縦に映る。そのせいで、舞台の上でのカメラマンの左右運動は、スクリーンでは、部屋の奥にいる男に接近し、また離れるという前後の運動に変換される。
 なんだかうまく書けた気がしない。
 スクリーンのうしろのカメラマンがに動いていくと、スクリーン上の映像はに向かって進む。カメラマンが右に戻ると、映像はぐーっと退く。そのふたつが客席からは同時に見える、ということで、これはへんなかんじである。
 とはいえ、急いで補足する。
 いま、こう書いていると、まるで気分が悪くなるように2種類の動きが交錯していたみたいだが(加えて、それを言葉でうまく説明できないもどかしさがまた気分の悪さを生むのだが)、交錯はたしかに交錯であっても、じっさいに見ているときには、酔うほどの混乱は発生していなかった、と思う。
 交錯の発生源はカメラだが、それを扱うカメラマンの生身の姿も見えているということが、私の視覚に錨を下ろして安定を与えてくれたんだと思われる。
 そう、「カメラマン」は戯曲にはいなかった。スクリーンの映像だけを見るなら、それはおそらくテレビで放映された"Ghost Trio"に近いものだったんだと思われるが、映像を提供するだけではなく、じっさい舞台の上にいて私の目に見えてしまっているんだから、このカメラマンも登場人物になったのにちがいない。この舞台をつくった人たちは、戯曲に忠実に従いながら、登場人物を増やしてみせた、ということになるんじゃないだろうか。それを「幽霊」とか言うのはいくらなんでも安易であるけれども。
 
 暗い場内でこんなふうに考えていられたのは、戯曲が一応あたまに入っていたからだ。読んでおいてよかった、と思うと同時に、読んでしまった以上、「何も知らずに実物にぶつかる」ことはできなかったわけで、両者が両立しないのは当たりまえだがもったいない。
(姿は見えず、マイクを通して聞こえてくる「女の声」は非常にきびきびした響きで、私のイメージとずれなかった。そしてやっぱり、自分が英語を読みちがえていたと気付かされることも数回あり、これまでに引用した部分でも、あきらかなまちがいがいくつかある)
 終わりまで見て、少年が雨のなか何を伝えにきたかはやはりわからず、つまりあれはわからなくてかまわないんだろうが、ぎゅう詰めの客席で息も殺して、私たちはいったい何を真面目な顔で見守っているのだろうと思うとおかしかった・・・ が、前回の「あたしじゃないし、」の感想でも同じことを書いていた。

 それから「あたしじゃないし、」の上演があり、それも終わったあとには、ふたつの劇に出演した役者および演出家、翻訳者のかたがたが舞台に座って、考えていたことを話したり、客席からの質問を受ける時間があった。
 客席のなかに宮沢章夫さんがいて、「あたしじゃないし、」の今回の演出について演出家のかたとしばらくやりとりをしていたが、宮沢さんが話しているあいだ、そのすぐ前の席に座っていた女性がずっと身をこわばらせていて(失礼ながら)面白かった。
 人間は自分のうしろを見ることはできない、とあらためて書いてみると、カメラを使って見たり見られたりのカメラマンや(「幽霊三重奏」)、一方的に喋っているのか聞き手の反応が影響を及ぼしているのか謎の関係(「あたしじゃないし、」)なんかがこじつけ気味に思い出されてくるのだが、ともあれ今回、ベケットの戯曲をはじめて読み、ベケットの劇が上演されるのをはじめて見た。次回があったら無条件で行くつもりでいるが、できれば演目はまたさっぱり意味のつかめないものであってほしい。
 もっとも、戯曲集のなかに「意味のつかめるもの」がいくつあるのかわからない。自分の理解をとおく越えるそんな本が部屋に積んであるのは、ぜんぜん悪いことじゃないだろうと考えながら中野から帰った。雨が降りはじめるまでには、たしかもう数時間あった。



The Complete Dramatic WorksThe Complete Dramatic Works
(1990/10)
Samuel Beckett

商品詳細を見る

コメント

非公開コメント