趣味は引用
幽霊/-じゃないし (1)

 読めない本も買うべきである。突然だが。量にしろ内容にしろ、読めない本も買って部屋に積んでおくべきだけれども、「べき」の理由はわからない。やはり、読めない本は買うべきではないかもしれない。
 どちらにしろ、うちの部屋には、何年前だか思い出せないころからベケットの戯曲全集があるのだった。読んでいない。が、表紙にThe Complete Dramatic Works と書いてあるからおそらく戯曲の全集だ。英語のペーパーバックである。読んでいない。私の語学力ではたいていの英語の本は読めないが、それでもちょっとのぞいてみようかという気になったのは、ベケットの戯曲が噂に聞くとおりのベケットの戯曲であるのなら、たとえ英語が読めてもよく読めないだろうから読めても読めなくても読めないことには変わりなく、であれば、私が読んでみてもいいのではないか。読めない本も読んでみるべき、というのはたぶんまちがいない。まちがいかもしれない。ない。

The Complete Dramatic WorksThe Complete Dramatic Works
(1990/10)
Samuel Beckett

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 本棚から取り出すと、背表紙だけ日焼けで変色していた。それにしてもこの顔はこわい。この顔もいずれ変色すると思うとなおさらこわい。
 見つめているとまた本棚に戻したくなるので目次のページをめくった。「謝辞」のうしろに33の作品が並んでいる。めざすのは"Waiting for Godot"ではなく――ゴドーは「謝辞」のすぐ次に来る――、"Ghost Trio"というやつだ。「幽霊三重奏」。もういちど目次で作品数をかぞえ直してみた。32だった。


"Ghost Trio"

 テレビ用に書かれた戯曲だそうで、最初の放映は1977年4月17日、とある。チャンネルはBBC2。知ったことかと言いたい。
 ぜんぶで3幕。はじめのページに、舞台の物の配置など細かい指示がある。問題は、登場人物というか登場するのが、「女の声」と「男の人物」の2人(2つ)しかないことで、早くも不安である。
 
 横幅よりも奥行きのほうがやや長い、長方形の空間。右側の壁にはドアがあり、その先は細長い廊下につながっている。奥には窓がひとつ。左の壁ぎわには、鏡と、粗末な布団。ドア、窓、鏡の横に男が立つらしい。
 そして何より、手前から奥に向かって、縦一列に3台のカメラが配置されるようである。最初のカメラが部屋の外側から全景をとらえ、2番目は部屋にちょっと入ったところから撮影、3台目はもっと奥にあって、ドアと男・窓と男・鏡と男を間近から写すようである。
 とりあえず順番に、全景カメラ・真ん中カメラ・近いカメラ、と名付けておく。
 
 私は演劇についても戯曲の読みかたについても無知であるし、それを差し引いても何をするのかさっぱりだけど、この戯曲というか台本の本篇(というのだろうか)は7ページしかないのでついていきたい。

◎ 第1幕(Pre-action)
 
 もう脱落しそうだ。ルーズリーフに舞台の図を書いて、だれがどう動いてどうなるか追ってみようと思っていたが、「女の声」と「男の人物」しか出てこないのでは意味がない。声は人間か。
 それともうひとつ、これは「テレビのための劇」なので、戯曲はみんな、シーンというかカットごとに番号が付されていて、ト書きは「どのカメラで、何を、どのように撮るか」の指示になっている(たぶん)。私は文字から「ここはこんなものが映っている、こんな画面になっているはず」と想像しながら読むしかない。
 はじめに全景が写されて(全景カメラ)、女の声がする。
女の声:こんばんは。わたしの声は小さな声です。だから穏やかに話します。[間] こんばんは。わたしの声は小さな声です。だから穏やかに話します。[間] 何が起きても、高くも低くもなりません。[間] 見てください。[間] よくある寝室です。[間] 向こうの端は窓です。[間] 右のドアはないと困ります。[間] 左には、壁に接して布団みたいなものがあります。[間] 明かりについて。ほのかに、くまなく照らされています。光源は見えない。まるですべてが光を発しているような。ほのかな光。影はありません。[間] 影はありません。色について。無色です。みんなグレー。グレーの影です。[間] グレーという色、グレーという色の影、でもいいです。[間] 見たままのことを話してごめんなさい。[間] 音は下げたままで。[間] それでは近づいて見ましょう。[間] 床です。

 こんなにかしこまって喋ってるのかはわからない。もっとくだけているのかも。でも、素っ気ない舞台に聞こえてくる声としてはこんなかんじかなあ、というのが私の限界である。そのくせ、あえて言う。地味。
 このあと、床が映され、壁が映されるのだが、おそらく床のアップ・壁のアップが編集で挟まれるのだと思われる。
床のアップ。滑らかなグレーの長方形。0.7m×1.5m。5秒間。
女の声:ホコリです。[間] この見本で、床をぜんぶ見たことになります。壁。

 と言って、こんども同じ0.7m×1.5mの長方形を5秒映すのである。そして、
女の声:ホコリです。[間]

 って、これは冗談なのか。神妙な顔でくだらない真似をするギャグのようでもあるが、そういえばこの声の主の顔はわからない。声があれば顔はあるのに。そして本当に「ホコリです」なのか不明である。(原文:Dust.)

 そんな調子で、ドアと窓も映される。音楽が低く流れる。窓は磨りガラス。ドアにも窓にも、ノブや取っ手はない。どちらもほんのちょっとだけ開いている。
 最初から、床→壁→床→全景→ドア→窓→布団→窓→ドア→壁→床→全景、の順に映り、シンメトリーのようなそうでないような、そしてようやくほかのものが映る。
女の声:ただひとつ生を示す、座っている人間。
全景カメラから真ん中カメラへゆっくり移行、男とドアが映る。男は椅子に腰掛け、前かがみで顔は見えない。小さなカセットを両手でつかんでいるが、この距離では何だかわからない。低い音楽。5秒間。

 やあ、やっぱり何だかわからないが、不穏でもあり、神妙にふざけている感もある。
 真ん中カメラからいちばん奥の近いカメラに移り、男とドアを映す。《カセットは、いまでは何だかわかる。》 でも何なのか書いていない。
 そっちがそういうつもりなら、ここまで女の声を聞かされてきたわけなので、その声が入っているカセットテープじゃないかと妄想する。でも、カセット(cassette)はたんに「小箱」なのかもしれない。
 男の手、下を向いた頭、隠れた顔が順に映され、それから映像はこれまでと逆に、近いカメラから真ん中カメラ、全景カメラへと移っていき、それに合わせて音楽も低くなって、ついに聞こえなくなる。
全景。5秒間。

 これで第1幕は終わりである。第2幕に続く。

…続き
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