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フラン・オブライエン「ドーキー古文書」(1964)
イギリス〈4〉集英社ギャラリー「世界の文学」〈5〉

大澤正佳訳、『集英社ギャラリー「世界の文学」第5巻[イギリスIV]』(1990)に所収


 アイルランドの海岸にある小さな町、ドーキー。ミックとその友達のハケットは、ある日、ひょんな偶然からド・セルビィという男と知り合って自宅に招かれる。正体不明のこの人物が出してきた自家製ウィスキーに二人は舌鼓を打つが、なんでも、そのウィスキーを仕込んだのはつい先週のことだという。
 そんなのありえない、と疑う二人にド・セルビィは言う、自分は「時間を支配した」のだと。ええー、ウソだろー? いやしかし、このウィスキーの芳醇な味わいからすれば本当なのか。なんて奴だ…
 
 えーと、なんだこれは
 だがこの程度でおどろいてはいけなかったのである。
《――わたしを神学者と呼ぶか、あるいは自然科学者と看做[みな]すかは御随意です。彼はやや間を置いてから生真面目な調子で切り出した。わたしは真摯な男ですし、真理への忠実を旨としております。時の本質に関わるわたしの諸発見は実のところ偶然の所産でした。わたしの研究目標はまったく別なところにあったのです。狙いは時の本質とは完全に無縁のものでした。
 ――なるほどねえ。いぎたなく頬ばりながらハケットはがさつな口調で応じた。で、その肝心な狙いってのは?
 ――全世界破壊。》p373、太字は引用者

 たいへんだ。「いぎたなく」ってそんな意味だっけと思わず辞書を引いてしまった自分が小物に思えるこの小説は、こんな調子ではじまり、こんな調子のまま進む。

 ド・セルビィが時を操れる証拠を見せてくれるというので、後日あらためて海水浴場に呼び出された二人は潜水服を着て水に潜り、海底の洞穴まで連れて行かれる。そこに現われた風変わりな人物とド・セルビィは噛み合わない神学論争のような会話を繰り広げ、その人物はどうやらアウグスティーヌスであるようだが二人はスルーする(まあ、スルーするしかないだろうから責めないでやってほしい)。
 それにしたって、全世界を破壊するとは穏やかではない。というか困る。かなり困る。だからミックはそれを食い止めるべく警官に相談しに行くが、フォトレルというその警官はその警官で日ごろからひそかに憂慮していることがあり、それは「長いこと自転車に乗っていると、サドルと尻のあいだで分子の交換が起きて人間は何割か自転車人間になってしまい、自転車は同じ割合で人間自転車になってしまう」ことだった。だから彼は同僚の自転車をたびたびパンクさせてこの同一化を防ぎ、ひいては人類を自転車から救済しようと努めている。
 さあ、はたしてミックは、この警官の協力を得てド・セルビィの野望を打ち砕くことができるのだろうか――といっても、これらの物事はすべてだらだらと、一切の緊迫感を欠いて語られる。登場人物同士の議論の多くは地元の酒場でなされ、たいていの場合、うやむやに終わる。
 奇想は山盛りだし、作品の土台にはあふれる教養があるらしいこともうすうす感じられるのだが、スリルとサスペンスだけはない。もうまったく、微塵もない。そんな小説がいったい面白いのかといえば、これがものすごく面白いのだからわけがわからない。

 そう、わからない、というところに踏みとどまりたい。
 というのは、「このバカバカしさがいいよね」という受け取りかたは玄関だけを見て家ぜんたいを評するようなものだし、「ユーモア」という言葉を使って説明するのも、作品をあまりに矮小化してしまうように思われるからだ。ぜんぜん、くだらなくなんかないのである。
 訳者の解説を見ると、とくに宗教の扱いに関して作品に込められたかずかずの深慮が読み取れなくもないようなのだけど、決してそういうことではなくて(少なくとも、そういうことだけではなくて)、この小説はこの小説のままで何かの極北である気がひしひしとする。
 ふつうだったら大がかりな設備と精緻な装置をもって、入念かつ膨大な手間ひまのすえにかろうじて少量でも析出できれば御の字である何かの核心が、ここではいきなり、素手でつかまれている。そんな印象。その「何か」にあてるうまい言葉が見つからない。
 最初のページにある「主要登場人物」の表からちょっと書き写す。
マイケル・ショーネシィミック
 下級公務員。ド・セルビィの全世界破壊計画を阻止しようと心を砕く。また、死んだと思われていたジェイムズ・ジョイスの生存を確認し、彼をド・セルビィに紹介して文学と科学の二大異才を対面させようと試みる。》
 
ド・セルビィ
 科学者にして神学者。ミックとハケットをアウグスティーヌスに引き合わせる一方、世界を破壊する大気絶滅研究の完成を仄めかして二人を悩ませる。》

 訳者が書いたのか編集者が書いたのか不明ながら、「ド・セルビィの全世界破壊計画を阻止しようと心を砕く。」とか、「世界を破壊する大気絶滅研究の完成を仄めかして二人を悩ませる。」という筆致がまさしくこの小説本篇のエッセンスであり、この小説本篇が、すべての小説なるもののエッセンスである、とまで言ったら、まあ、言い過ぎである。ごめん。
(なお、『ユリシーズ』の作者は居酒屋で給仕をしている)

 こういうものこそが小説だとまでは思わないが、小説はこういうものであってもいいのだということはもっと広く知られてよいと思う。しかしながら、フラン・オブライエンの小説は手に入りにくい。唯一、手軽に買えるのは国書刊行会から出ている『ハードライフ』(1961)だが、これはだいぶ辛気くさいらしくて未読(→その後、読みました
 あとは長篇「スウィム・トゥー・バーズにて(1939)と「第三の警官(1967)が、筑摩書房の『筑摩世界文学大系 68』にまとめて収録されているけど、もともと高かったし絶版で古本はもっと高くなった(あのデカい判型に3段組みの全集本です)。
 図書館で借りて読んだときの記憶からメモると――

スウィム・トゥー・バーズにて」:
(1)下宿で酒を飲む合間に小説を書くボンクラ学生、(2)その学生が書いている小説の主人公である作家が書いている小説の中の世界、(3)よくわかんないアイルランドの伝説や妖精物語、という3つのレベルが混じり合い、ということは「3つのレベル」は厳として存在するわけでもなくきわめていいかげんに往還され、(2)の作中作では、作家は自作の登場人物を自分と同じホテルに住まわせていて、彼が寝ているあいだだけ登場人物は自由に動いて作者の裏をかこうとする、みたいな、もう「いつまでも終わらないでほしい」と祈りながら読むしかない奇作。

第三の警官」:
小説がはじまった時点でだったか、はじまってすぐだったか、とにかく語り手は死んでしまう。でも自分では気づいていない。かくてあとに続くのは、ひたすらヌルい地獄遍歴。なにしろ語り手にやる気がない(語り手の魂が併走して、やはりやる気のないツッコミを入れていたような?)。じつは「自転車と人間がくっつく」ネタはここにも登場する。大事なモチーフだったのか。怪人ド・セルビィも脚注欄に登場し、もう「いつまでも終わらないでほしい」と祈りながら読むしかない奇作。

 やっぱり私は、こういうのこそが小説だと思っているのかもしれない。集英社と筑摩書房には、これら3作をなんとか文庫にしていただけないものだろうか。


 ○ ○ ○

ほかのかたの感想:

 ・「ドーキー古文書」夢天別館

 ・「スウィム・トゥー・バーズにて」、「第三の警官」たこBar


あと、蛇足:
「ドーキー古文書」の原題は"The Dalkey Archive"で、これをそのまま名前にした出版社が「アメリカの国書刊行会」とも呼ばれるDalkey Archive Pressである→サイト
Dalkey Archive Pressは、当然"The Dalkey Archive"を出版していてもう何が何だか。
ここは単行本のほかに"The Review of Contemporary Fiction"という特集形式の文芸誌も出しており、たとえばミルハウザーの特集号が3年前に出ていた。
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