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2004/04/01

その19 ― ピンチョン Lot 49

The Crying of Lot 49 (Perennial Classics)

前回…] [目次


 啓示とは何だったのか?
 前回の引用部分にあったように、それがエディパの理解できないところでひらめいていた一瞬は、地平線に広がる靄と、強い日差しで縁取られた「宗教的な瞬間」だったという。別の周波数で、彼女には知覚のできない場所から、何らかの言葉が発されていたかのようだった(As if ... words were being spoken)。わかったのはそこまでである。
 DJであるムーチョが、放送局のブースの中で喋りながらつかもうとしているのも、その言葉・声なのかもしれない、とエディパは考える。宗教という語に即せば、この現世とは異なった世界からやって来る、神の御言葉。
She gave it up presently, as if a cloud had approached the sun or the smog thickened, and so broken the“religious instant,”whatever it might've been (pp14-5)

《やがて、一片の雲が太陽に近づいたかのように、あるいはスモッグが濃くなったかのように、エディパは考えるのをやめ、「宗教的瞬間」は、それが何であったにもせよ、千々に砕けた。》p26/pp29-30

 啓示とは何だったのか?
 おそらくそれは、ひとつの世界認識であるだろう。ただし啓示は、あらかじめ自分の理解を越えたものとして、つかめそうでつかめなかったものとして、自分の前をかすめていったと感じられたに過ぎない。だから、それがどんなものなのか、エディパの立場から知りようはずはない。
 一登場人物には、経験を内省したり意味付けを施したりはできても、自分を超越的な地点から見ることはできない。それができるのは、ただ〈語り〉だけである、というのが小説というものの構造であるはずだ。
 世界の真の姿なるものを求めがちなエディパの先入観による錯覚ではなしに、本当にあるのか(あったのか)わからないものとして、「つかみそこねられた啓示」があったということだけは、地の文という語りによって保証されている……と思う。しかし、それで結局、何が保証されているのだろう。エディパと同じで、よくわからないまま進むしかない。

 地の文で書かれていることのどこまでを登場人物も意識しているのか、明瞭に判別できる小説もあれば、そうでない小説もある。Lot 49 はそこが相当に微妙で、とりわけ大事そうなところになると、区別のしにくい書かれ方がされている。どんな意図でピンチョンはそういうことをするのか。

…続き

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