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2009/04/15

福永信『アクロバット前夜』の続きの続き


前回…


 短篇「三か所の二人」について書きたいのだが、ここでまた、前回もちょっとぶつかった、本書ならではの大きな特徴が立ちはだかる。
 引用しづらいのだ。
「おっ」と思ったページの端を折っても、何行目に「おっ」だったのか、印をつけておかないと簡単に見失う(見失った)。
 だから私はこれを書くために、結局また猛スピードのページめくりを繰り返している。何をやっているのか。
 しかしこれは、たかが文字の印刷された紙の束が、現実の行動に作用を及ぼしているということでもたぶんある。
 
「三か所の二人」の中心になるのは「サチ子」という名の女子中学生だが、彼女はたいへんな美少女であるらしいので、男子のあいだではファンクラブまでできている。まあ、そういうこともあるかもしれない。しかし、
《木曜日の午後八時をすぎたこの日、彼らファンクラブの会員は、いっせいに、あしたの予習にとりかかっていた。》
pp12-4の19行

 なぜならこの時間、サチ子が翌日の予習にとりかかるからだ。
 彼らファンクラブの会員たちは、自宅におけるサチ子の行動パターンを曜日別に分単位で調べあげ、それと同じ時間に同じ行動をすることから、無上の喜びをかんじるというのである。
 だから彼らは、サチ子がそうするように九時四五分に予習を終えると、サチ子がそうするようにタンスからパジャマを取り出し、サチ子がそうするように一〇時五分から一一時三〇分まで入浴するのである。それぞれの家で、しかし、いっせいに。これはそういう小説である。
《ファンクラブの会員は全員男子であるため、当然、フロは大嫌いである。トシ夫などは入会前は三日ごとの入浴(それもシャワーのみ)が常だったというから、毎日、しかも約一時間三〇分もの入浴など想像することすらできなかっただろう(それが今では苦にならないどころか、紀州備長炭を入れて湯船の水をマイナスイオン化したりハーブの入浴剤を独自に調合したりして、サチ子をしのぐほどのフロ好きになっているのだった。そのせいか最近のトシ夫の肌はやけにツルツルしている)。》
pp24-32の19行

 くだらなさすぎる状況を、そのくだらなさに足を取られないよう、かんたんな言葉でどんどん書き進めていく。うしろを振り返ったりはしない。しかし脱線はする。大いにする。本筋も脱線も同じスピードで進む。
《会員たちは毎夜目を閉じながら思うのだった。夢のようだ、と。まるでサチ子のすぐそばで、一緒に生活しているようだ、と。》
pp50-2の19行

 サチ子に同一化しようとして、男子全員が同一化してしまっているわけである。しかもこの時間、当のサチ子は入浴していない。夜の学校へ向かったのだ。どうやら先生と待ち合わせがあるらしい。
 しかし、そこで彼女が発見したのは、奇体な格好をした中学生男子だった → 彼がなぜそんな格好をしているのか事情を聞くと、彼と怪しい男性との接触が語られる → するとサチ子は思い出す、今日の午後、学校に来る前にカフェで出遭った怪しい男のことを――
 
 この合間合間に、サチ子のファンクラブ員男子たちの言動や、サチ子の両親のあいだの揉め事なんかが挟まれるが、どの状況を語るどの文章も人を食ったようなバカバカしさで、折ったら「ポキッ」といい音をたてそうな、乾いた調子でテンポよく進む。
 そのすべてを「どうでもいい」と投げ捨てられないのは、これらのアクションが始まるまえ、この短篇の書き出しだけが、例外的に思わせぶりなことを語っているからだ。
《世界にはおなじ容姿の人間が三人いる!/だれもがそれを知っている。だけど、だれひとりとして実際には見たことがない。そのことに人々はもっと驚いてよい。まわりを見渡してみよう。そこにははたして、おなじ容姿をした人物が見つかるだろうか? まず見つけることはできないと思う。[…] 視力の届かない、遠く離れた場所でしか、おなじ容姿の人物は見いだし得ないのだ。それは、まるっきりおなじ外見を持つ三人の人物は、ただ想像の中でだけ出会うことが可能なのだ、ということと、まったくおなじことだ。》
pp108-121の18行目+pp2-3の19行目

 最初にこんなことを言われたら、これはどうにも気にかかる。
 そして、この作品からあえて“謎”を抽出してみれば、サチ子の言う「あなたの話に出てくる男は、私がカフェであった男にちがいないわ!」みたいな部分なのだが、同一人物なのか、たんに似た人なのか、まったくの別人なのか、たぶん“正解”はない。
 その怪しい男だけでなく、2回以上登場してくる、たぶん同じ人間じゃないかと思われる人物を、ほんとうに同じ人物として受け取っていいのかどうか、読んでいる側で自信が持てない。そんな書きかたがされている。
 そういえば、男子中学生二人が電話で話しているときに、少しのタイムラグをはさんでそれぞれの耳に聞こえてくるサイレンが、はたして同じ救急車からのものかどうか、という話がちょっとあった。それには「確かめられないわけだから、どうでもいいことだ。」と断言が下されるのが、いかにも「アンダーラインを引いてください」みたいで気にかかる。
(さらに、あの冒頭もこの断言もミスリードで、いまの私みたいにあれこれ思い悩むようかまされた仕掛けでしかない気もしてくる)

 どうなってるんだ、と考えながらも私の手はページをめくり、ときどき、こちらの足場がぜんぶ崩されるようなやりとりに遭遇する。
《――聞いているんだろうな?/ケン一の不安そうな声が肩にかけた受話器から漏れ聞こえた。テル男はあわてて受話器をつかみ直し、耳に当てた。/――もちろん、聞いているさ。ケイ子から電話があったというのだろう?/――ケイ子? ケイ子だなんて、一言もいった覚えはないぞ。/――今のはケイ子の真似じゃなかったのか、どうりで似てないわけだ。/――似てないのに、なんでケイ子だと思ったのだ?》
pp13-9の26行目

 はたしてこの小説は、どこを真面目に考えればいいのだろうか。
 あれこれ考えているうちにそこまで疑問に思えてくるので、たぶんおそらく、同一化と複数化が何かを起こしているかのような印象はあっても、タイトルである「三か所の二人」から考えて、短篇のなかの“場所”や“人数”を細かく数えあげてやろうという気にもいまひとつなれないでいる。つかみどころがない。
 それでも、というか、そんな状態でいるからこそなのか、この短篇もこの短篇集も、むやみに面白かった。ここに示されているあたらしさや可能性は、まだ自分には見定めがたい。でもこの道の先には、ものすごいアクロバットが待っている――ような気がする――、これはたしかにそんなアクロバット前夜の本だった。

 ところで、今回この感想を書いていて、ひとつ発見があった。私はこの『アクロバット前夜』がとっくに絶版で、だから古本屋で探すしかないと思ってそうしていたわけだが、いまamazonで見たら、ふつうに売っているじゃないか。しかもいま現在なら「在庫あり」。


アクロバット前夜アクロバット前夜
(2001/05)
福永 信

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なお、もっとあたらしい短篇集『コップとコッペパンとペン』の刊行時に行われたインタビューが河出書房新社のサイトにあった(→これ)。
なんでも、“『アクロバット前夜』のタテ書き版”の刊行予定があるらしい。

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