2009/04/14

福永信『アクロバット前夜』の続き


前回…


 収められているのは短篇が6本。「読み終えて」「アクロバット前夜」「BOYS&GIRL」「五郎の五年間」「屋根裏部屋で無理矢理」、そして「三か所の二人」
 目次には、各短篇が何ページの何行目から始まるかが記されている。
 
 多くは学校を舞台にして、コドモであることになっている男女がどんどんどんどんアクションを続ける。内面の描写とか、周囲の事物への気の利いた観察とかは、ない。一切の深みがない即物的な言葉で、登場人物の反射的な行動が書かれ、そこから連鎖する次の行動がぽんぽん生まれる。
 といっても行動だけが特異なのではなく、簡素にすぎる文章の書かれかたがおおむね特異、部分によってはかなり特異なのであり、たとえばこんなところはどうだろう。
《階段を降りてすぐの曲がり角で、同じように走ってきていたクスノセとぶつかってしまった。クスノセセツコ。君は彼女のことがひそかに好きだろう。かわいいからだ。君はかわいい顔をした女子には、それだけで、本当に弱いんだ。まったく単純だな。》
「読み終えて」pp71-5の2行目

かわいいからだ」って、それはわざわざ書くことなのか。文章が簡素というのは、無駄なことは書かないことだと思うんだが、「書くべきこと」と「書かなくてよいこと(無駄)」の基準がズレている。ズレているのに、振り返らない。振り返らずに、どんどん進む。そこから妙なおかしさが生まれる。
《「セミがずいぶんうるさいナとか、思ってるんじゃない?」/といったのは、五分刈りの頭の男のコだった。裕美のとなりの席の生徒だ。/「ええと、あなたは、伊藤弘さんね」/「もうぼくの名前、覚えてくれたんだ」/伊藤は感激した様子でいった。/「前の学校に、同姓同名の男のコがいたから」/裕美が肩をすくめながらいうと、/「ああ、そう」/ちょっとガッカリしたようだった。/「ごめんなさい。余計なことを、いっちゃったわ」/「イヤ、あやまることなんかないよ。むしろ光栄だな」/伊藤は窓の外を見た。/「出会う前から、ぼくの名前を知っていてくれたなんて光栄だよ」/胸を張り、ヤッホーと叫んだ。/山彦が返ってきた。/「早乙女さん、この学校って、ずいぶんイチョウの木が多いナ、と思ってるんじゃないかな」/裕美は驚いていった。/「心の中を覗かれているようだわ」》
「BOYS&GIRL」pp26-38の12行目

 謹んで申しあげたい。なんだこれ。
 この変なスピード感がどの短篇でも生命線になっていて、じっくり書いたらどうにも成立しようのない「学校内の陰謀」(生徒1人がほか全員から狙われている)とか、度を越したストーキング行為(対象の女子の部屋で、机の下に隠れる)だとかを、それぞれの短篇のなかで成立させている。
 たぶん、設定だけを説明したら「そんな馬鹿馬鹿しい思いつきって、小説になるのか」と相手にされないようなものばかりだ。その人物がどんな顔をしているかはまったく書かれなくても、窓からヤッホーと叫べば「山彦が返ってきた」とまで書かれるこの小説では、そんなものが、ちゃんと(かどうかは知らないが)形になっている。
 もともと雑誌に掲載された短篇は、初出時にはふつうの縦組みだったらしいけど、忙しいページめくりを求めるこの書式に流し込まれたことにより、スピードはより加速することになって、作品には大きくプラスになったと思う。というか、作品をいちばん活かせる書式を探した結果が、この「1行ずつ、横にページをめくらせる」だったんじゃないだろうか。

 で、反射的な行動の連鎖をスピードに乗せてつなげていくこのような書かれかたでもって、「笑える」のと同様に、おかしな効果が生まれていると思う。
 なんというか、登場人物について、その人物がその人物であることの重要性が薄くなっているのだ。
 いや、ことごとしく「重要性が」というか、たいていの小説では「ある」ことになっている(と読者の側で思っている)前提が、うまく外されているようにかんじられるのである。
 ある人物に何ごとか出来事が降りかかる。その人物は何かしら反応する。また出来事が降りかかる。反応する。その反応の連鎖でもって「1人の人物」ができていく、というのはどんな小説であっても同じプロセスだろうが、『アクロバット前夜』の各短篇に登場する各登場人物においては、キッパリと潔く、それ以外の方法では人物ができていない。
 出来事の起こるまえから、そして出来事が起こり、終わっても、その人物は確固たる1人の人物である、という前提がすごく希薄で、いっそ、ないんじゃないかと思われるのである。
「一貫性のある人物が描けていない」という否定的な意味ではなくて、ここにある短篇では、はじめからそこにアクセントが置かれていない、というのがはっきりわかる。そんな約束事に知らん顔、というか。
 そしてその結果、1人の人物が、ことによると1人ではないのじゃないかと思わされることもある。
 収録作でたぶんいちばん短い「屋根裏部屋で無理矢理」を粗雑にまとめると、屋根裏部屋で絵を描いていた青年が、窓の向こうに見える病院の屋上で相撲を取っている友達のところに駆けつけ、さっきまで自分のいた屋根裏部屋を見てみると、いなかったはずの人間が部屋にいて、そちらから青年じしんの声まで聞こえる、みたいな話だが、そのあいだに、鼻パックをさがして転倒したり、いるはずの妹がいないので「また合コンか!」と毒づいたり、といったドタバタを追ったすえにこのゴールにたどり着くと、「なんと青年が分身した!」というよりも、「何気なく、複数化していた」という印象を受ける。特別にすごいことでもなく、「べつに複数いてもいいんじゃないか」くらいの調子で読まされてしまう。
(この感想も私がでっちあげたもので、短篇じたいは、単数にも複数にも関心がないように見えるのだ)

 この、ある人物がその人物から抜け出てしまうような印象だとか、ひとりの人物が同時に2か所にいても気にしない、みたいな書きぶりは、その無造作さも含めて、重要な何かにはげしく抵触しているように思うのだが、私には「ように思う」くらいしか書けない。
 もしかするとこれらの作品は、私が個人的に気にしているあの感じ→参照)の表現にも近いのかもしれず、そうではないのかもしれず、あやふやな感触をうまくつかまえられないでいる。
 ところがうれしいことに、ブログ「偽日記」の古谷利裕が、おそらく『アクロバット前夜』とその後の作品を含む福永信論を「新潮」の最新号に書いたという(→2009-04-07)。
 私の気にかかっていることを古谷氏が扱ってくれている保証はまったくないわけだが、とにかく福永信についてどんなことが書けるのか興味津々なので、これはぜひ読みたい。
(この人の書いた青木淳悟論はすごく面白かった。「青木淳悟がなんか面白いのはわかるけど、でも、あれについていったいどんなことが書けるのか」と思っている人におすすめ。「新潮」2008年2月号に掲載の、「書かれたことと書かせたもの」)。

 で、私のほうはもう1回ぶんかけて、『アクロバット前夜』でいちばん面白かった「三か所の二人」について少し説明したい。

…続き


アクロバット前夜アクロバット前夜
(2001/05)
福永 信

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