2009/03/28

長嶋有『ねたあとに』の続き


…前回の分


 たとえばある年の夏、「私」のほうが先に山荘に来て数日過ごしていたところに、コモローが到着する。
《「全然、暑くないよ」荷物を書生部屋に置くや、すぐに布団の取り込みに加わってくれたけど、コモローはやはり元気がない。
「東京(の気温のこと)?」
「そう」つまらなそうにうなずいたが、布団を両手に持つ動作は、いきなり馴染んでいる。》p201

いきなり馴染んでいる」。まさにそうとしかいいようがないのが、その家の住人の動作である。山荘だって変わりはない。

 こういう“気づき”をもたらす部分はまだまだあるから、いくらでも引用できてしまうが、いちばん「!」となったのを選ぶと、今のところはこれになる。
《トモちゃんは、やはり大きな紅茶カップではない、銀色の、ウイダーinゼリーみたいなのを飲んでいる。みたいなの、というか、ウイダーinゼリーだ。》p291

 そう!ウイダーinゼリーを飲んでいる人は、いつも「ウイダーinゼリーみたいなの」を飲んでいるように見えると自分は思っていたのだと、ここを読んで私は激しく気がついた(変な表現)。たぶん自分ではウイダーinゼリーを飲んだことがないからだと理由はわかるんだが、しかしどうして、そんなかすかな感触を言葉に定着できるのか。

 自分の気持を説明される感覚。
 さらに、未知の気持を既知のように説明される感覚。

 小説も終わりに近い「その七」で、2日に分けて戦われた改良版「軍人将棋」のくだりもすごい。
 やったことのある人はわかると思うが、「元帥」とか「爆撃機」とか「スパイ」とか書いてある駒のすべてを伏せたまま行われる軍人将棋は、プレイヤーふたりのほかに審判が必要で、語り手がその役をつとめることになる。
 駒と駒との勝ち負けを一覧にした表さえあればいちおう審判はできるから、「私」ははじめルールもよく理解していないが、盤上で時間をかけて進行する対局を観察しているうちに、徐々に見かたをつかんでいく。
 語り手がプレイヤーの戦略や読み合いを推測できるようになるのと、局面がじりじり佳境に向かっていくのとが絶妙に重ねられ、文章は坦々としたまま(だって語り手は同じだから)、しかし緊張と熱をはらんでいく(だって、行われているのはまぎれもない真剣勝負なのだから)。
《トモちゃんはコモローの「ニホッヘー」で最強の元帥を失った。だがコモローはそのことを知らない。
 なぜなら。二歩兵が勝てる駒は元帥以外にも数種類あるからだ。コモローは自分が強い階級のどれかに勝った、としか把握できていない。
 コモローもトモちゃんの「軍医」と引き分けて、元帥を失った。でもトモちゃんはそのことを知らない。軍医は、ほぼすべての駒と引き分けるから。[…]
 とにかく、二人ともガッカリやワーイを顔に出さないのではなく、出せないのらしい。
 そういったすべてを、私だけが知っている。不思議な気持ちだ。私が知っているということと、知っているのが私ということの、両方が。》p306

 軍人将棋が「説明」され、それに興奮する小説。
 私はこれまでそんなものを読んだことがなかった。高校3年の秋ごろ、もっと簡略化した軍人将棋で、「なあ、『大将』はどうやって『飛行機』に勝つんだ?」「…飛びかかる?」などと騒いでいた、うすら寒い部室を思いだしもした。
 どんな意味を汲みとれるかは、題材ではなく視線の問題だ。この小説を読んでいると、つくづくそう思わされるのだけど、さらに丁寧なことに、後半、目に見える題材から目に見えない意味を汲みとるまなざしの実演として、もっともくだらないものに見えたあるゲームについて、コモローがえんえんと講釈する見せ場まで、作中に用意されている。どこまで説明好きなんだ。
 それでもそのゲームは、やっぱりくだらないままなのがすばらしい。

 しかも『ねたあとに』には、どうやらほかにも仕掛けがある。少なくともそんなふうに読める余地がつくられている。
 山荘の生活がこの小説のすべてであるために、山荘の生活を観察する「私」の視線は、ときにこの小説への視線にもなっていて、たとえば、コモローひとりだけの遊びとして「ムシバム」というものが紹介されている。
 これは山荘に出た虫の写真だけをアップするブログのことで、ほぼ誰にも求められていない、夏季限定ブログなのだが、「私」がムシバムについて行う考察は、たぶんおそらくこの小説を内側から十全に説明するものになってしまっている。だからそこは引用しないが、この照応はちょっとうますぎて、そんなにうまくやらないほうがむしろ効果的じゃなかったかとまで思った。
 そんな「ムシバム」が、小説の最後半なんかではなく、早い段階であっさり紹介されているのが意外だった。「いいの?」と思うが、言ってみれば、小説のタネ明かしみたいなものを先にしてしまって、それでもこの小説はホラこんなに面白いだろう?という自信をかんじる。そしてじっさい、それでも面白いのだ。であればタネ明かしはタネ明かしでもないというか、たいした意味なんてないのかもしれない。

 それと、「オーエさん」の件。
 唯一起きる事件らしい事件は、コモローの書いた小説を世界的大作家の「オーエさん」が評価し、第1回の「オーエ賞」を授賞してくれることだが、それは山荘の“外”での出来事だから、間接的にしか触れられない。山荘の“中”では、「ケイバ」の出走馬に「ラッキーオーエ」が加わるくらいである。
 それにしても、オーエさんが出てきたから言うのではないのだけれども、小説家が、まるで作家自身であるようなキャラ(コモロー)を作中に送りこみ、その言動を他人の視点から論評したり、友人とおぼしき人たちをどんどん登場させたりして小説の“外”と“中”のキワキワを歩いてみるやりかた、つまり“長嶋有”と“コモロー”が重ならないまま近づき、近づくようにみせて離れていく姿なんて、まるで古義人三部作である。古義人三部作なのに、「ムシバム」で「軍人将棋」である。そこに私は長嶋有の気概を見た、気がする。

 そしてもうひとつだけ、書いておきたいことがあった。
 ひとつも派手な事件が起こらないのが「たまたまそうなった」のではなくて、そういうものを丁寧に取り除く作為のもとにこの小説ができているのと同じように、山荘に集う楽しいメンツも「偶然そこに居合わせた」なんてことはなく、コモロー父子から選ばれた人だけがここにお呼ばれされていることを「私」は隠さない。
 山荘に来たくても招いてもらえない人がいる。
 それにまた、招いてもらったある客は、山荘のゲームで「自分のセンスを試されている感じがして」「すごく緊張した」と小声で漏らす。
 男も女も順番に同じ五右衛門風呂に浸かるのを気にしないとか、カレーの鍋に虫が入ってもOKとか、そういうことではない、もっときびしい基準でコモローは客を選んでいるのにちがいない。そういう意味で、この楽しい空間がかなり選別的で、閉じているのはたしかだと思う。いちばん最初の山荘のルールは、そこにあるのかもしれない。
 どんなグループだってそんなふうに成立しているわけだが、あえてこの点に触れる語り手は、自分は楽しみながらも軽いうしろめたさをかんじている。まるでこの小説が、だれにでも楽しく読めるものではないかもしれないことを気にしているみたいだ。
 だれにでも開かれた小説というのは、だれにでも開かれた山荘と同じく、まだ現実に例がないだろうに、みずからの閉じかたにもわざわざ言及しておくのは、正直だと思う。
 そして、そこも正直に示すことによってこの小説は、選ばれてない人へも歩み寄ろうとしているのだと私は思う。もう詭弁の域かもしれないが、私自身は現に楽しく読んでしまった、つまり「自分はこの小説にお呼ばれされた」つもりでいるわけだから、ここで呼ばれなかった人の側に立つふりをしてもしかたがない。

 だからできるだけ口を軽くして言いふらしておきたい。引用したい部分はまだまだあるが、私が言いたかったのはこれだけだ。
『ねたあとに』はすごく面白い。私がこれだけいろいろ書いたからって、減ってしまう種類の面白さではない。だからぜひ実物を読んでみてほしい。

《向こうからアッコさんが「コーヒー淹れますかー」と間延びした声で尋ねてくる。
 ノムー、ノムー、ノムー。三人で合唱。
「じゃあ、久呂子さん淹れてー」とアッコさん。淹れ方知らずに尋ねたのか。》p249



ねたあとにねたあとに
(2009/02/06)
長嶋 有

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追記:

「ムシバム」は本当にあったのか!!! 出木杉、いや出来すぎだよ!!
http://moon.ap.teacup.com/mushi/(虫が出ます)

私は比較的新参の長嶋読者なんで、知らなかった。
それにしても、↓この記事とか、『ねたあとに』のあとだとじつにクラクラする。
http://moon.ap.teacup.com/mushi/140.html(虫が出ます)


→ さらに追記

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