趣味は引用
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
長嶋有『ねたあとに』(2009)
ねたあとに

朝日新聞出版


 いま数えてみたところ、さしあたって書きたいことは5つくらいあるんだけど、引用したい部分は多すぎてとても数え切れない。
《「コーヒー飲みますか?」居間の会話の途切れた瞬間に、言葉をさっと挟む。誰も飲まないといっても、お湯は沸かそう。無線室の、ヘッドセットをはずして(本当はヘッドセットなんかしてないけど、そんな気持ちで)立ち上がる。元の位置に電話、さっと置いて、くるっと振り向きシンクに。さっそうと歩くつもりで、椅子に腰をぶつけた。
 ノムー、ノムー、ノムー。
 向こうで三人の声は相次いだ。》pp170-1

 小説家のコモローと、その父親のヤツオが夏を過ごす山荘。
 そこだけを舞台に、山荘に招かれた客たち(コモロー&ヤツオの友人・知人)の生活が描かれる。視点はコモローではなく、ゲストのひとりの三十代女性に置かれていて、山荘のあれこれと、そこで過ごす人びとの言動に、淡々とした観察とツッコミを続けていく。淡々というか、坦々とした調子。
 そもそもが避暑用だし、仕事もあるから、「私」が山荘に居られるのは毎年数日しかない。それで「私」が山荘を去るところで章が終わると、次の章は翌年の夏になっている。本格的に、山荘だけなのだ――と強調するのも変で、これはもとからそういう小説なのだけど、そういう小説であることがやっぱり笑える。平熱の文章が舞台の涼しさにもマッチしている。

 軽薄なコモロー。覇気のないヤツオおじさん。しかし山荘のあらゆる備品と暮らしのコツに精通したこのふたりに導かれ、ページが進むにつれて「私」も自在に山荘の中を動き、あちこちの工夫に気づいたりもする。何気なく、山荘の経験値がたまっていくのだ。湿気がひどいので毎日の布団干しは欠かせない。洗濯物を取り込むのにも技がある。この夏、この山荘で初対面、という人との距離をはかる様子も、
《コモローがチョコを大きめに折って残りを私にまわしてきた。
「アッコさんありがとう」台所に聞こえるよう、大きめの声でお礼をいい、一かけ折る。私も「アッコさん」と呼ぶことに決めた(決まった)。》p34

 こんなふうで、細かい観察も、それを文章にするのも、すごくうまい。両方ともうまくないと、どちらのうまさも見過ごされてしまう(当たり前だけど)。
《シンクに戻るとカマドウマがいた。
 どのカマドウマにも実は思うことなのだが、ずいぶん立派なカマドウマだ。》pp41-2

 なにも私は、共感や「あるある」ばかりを求めて小説を読んでいるつもりはないはずなのだけど、文章化されているのを読んではじめて、自分の中にもたしかにありながらこれまで意識していなかった感覚に気づかされる、という体験は気分がいい。
 それは「あるある」の、かゆいところを掻いてもらえるありがたさを越えて、「発見」のおどろきと同じだ。そうか、おれはこう思っていたんだという発見。小さな快感がどんどん積み重ねられる。
(いちばん最初に引用した部分、「コーヒー飲みますか?」への返事がカタカナで表記されているのなんて、見えているようで見えていなかった、まさしく発見の一例だと思う)

 そして、この小説でおそらく半分くらいのページが割かれているのは、夜の山荘で行われるさまざまな“遊び”のシーンだ。
 ここでは既製のゲームは見向きもされず(そもそも、ない)、客たちが巻きこまれるのは、おもにコモロー父子によって考案された、オリジナルな遊びである。
 くだらなくて意味がない。ルールだけは緻密。この山荘にはそういう遊びがごっそり蓄積されているが、「ケイバ」、「顔」、「それはなんでしょう」、などと名前を書いてもさっぱり内容のわからない独自すぎるものなので、作中ではコモロー父子の口を借りた解説からはじまり、やってみた客の反応と感想を通して、もっと詳しい遊びかたが伝えられる。
 さらには、長年のうちに加えられたルール改良の意義まで、「私」といっしょにわかってしまう。小説は、遊びかただけでなく“面白がりかた”まで丁寧に説明してくれるのだ。
 おかげで、まるで自分もいっしょに遊んでいるように読める、と書くのはかんたんだけど、実際にやってみないことにはわからないのが“遊び”だろうに、登場人物が遊んでいるのを読むだけでもかなりの「やっている感」が出ているのだから、この作者の説明の技量と、技量を行使する方向の、両方がそらおそろしい。
(だからこの小説じたいが“遊び”なのだ、と言えるのかもしれないが、個々のゲームも自分でやってみたくなる。「ケイバ」は、麻雀牌を使ったレース。「顔」は、架空の人物の設定を、名前から出身地、性格その他、サイコロでひとつずつ組み立てていく。「それはなんでしょう」は…… それはなんでしょう)

 山荘での生活と、遊びが書いてある。それもやたらと細かく書いてある、というのがこの小説のすべてで、「いい大人が何をしているんだ」という声が仮にあったとしたら、こう答えるしかない。「山荘で、遊んでます」。
 劇的なドラマはない。色恋は、その気配さえほとんどない。虫だけはたくさん出てくる。それなのに、というかそのせいで、読みどころばかりの小説になっているのだから、作中でコモローが放つ言葉を真似して、私も「ザマーミロ!」と言ってみたい。だれに向かってというわけではないけれど、ゆるゆると流れていくあいだ、具体的な手触りが連続し、どこまでもずっと楽しいままなのは、小気味いいというか、いっそ痛快である。

 そんな私は、仲のいい人たちが集まっている空間と、そこに流れている時間に惹かれているんだろうと思う。
 たとえば、客のひとりが先に山を下りたあと、コモロー父子がその人の声真似をしつこく繰り返す。断続的とはいえ50ページは続くから相当しつこいのだが、だんだん誇張が大きくなって、ついには「独自の域まで到達してしまった」と述べられているあたり(p114)など、そうそう、そういう反復と発展の起こる場に自分もいたことがある、という懐かしさと、「いいよなあ」というあこがれが、同時に刺激される。
 そんな細かい過程をわざわざ書くところに、この小説の真骨頂はある。
 以下は、晩ごはんのあと、バームクーヘンを頬ばって、ゲームをしながら携帯電話について話している場面。
《「何年か前に、コモローの友達が、電波がくるかもって屋根にのぼって着信してたよ」とおじさん(友達は、一応いるらしい)。皆で天井を見上げる。当たり前だが屋根の上は(もちろん、数年前の友達も)みえず、電球に虫がたかっていた。》p169

皆で天井を見上げる。」の一文には、ただの「そういうことってあるよねー」ではなくて、読んでいるこっちも、ここにいる4人といっしょに書かれた動作を思わずトレースしてしまう動きがあり、自分でも変な感想だと思うが、あらゆる急展開から遠く離れたこの本のなかで、いちばん小説らしさをかんじた。

…続き
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。