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(8) ミルハウザー「新自動人形劇場」(了)

《新しい自動人形たちは、ぶざまとしか形容しようがない。すなわち、古典的な人形の何よりの特徴である動きの滑らかさの代わりに、そこにあるのは、素人の作ったからくり人形のぎくしゃくとした唐突な動きである。》p135

 何の模倣でもなかった新自動人形は、人形でしかない人形だった。
 ところで、この新自動人形のような文章は可能だろうか。
 つまり、何の描写でもない文章、並んだ文字の向こうに何か対象を思い浮かばせるのではなく、いまページの上に印刷されている文章を文章そのものとして読むほかに受け取りようのない文章を書くのは可能なんだろうか。

 それは端的には、ものすごく下手な文章ということになる。
 だって、そうじゃないか。文字面はごつごつとしてすんなり飲み込めず、あちこちの言葉でつまづく、生硬でぎこちない下手な文章を目で追っているときにいちばん、「これは文章だ」と意識するはずだと思う。
 そしてまた、描写というのをもっと拡大し、何らかの意味を伝えることも「意味の描写」と考えるとすると、何の描写でもない文章というのは、何も意味を伝えない文章ということになる。
 文章は伝達を目的にできているので、どうしても伝わってしまう部分が残るから、「何も意味を伝えない」というのはありえないだろうけど、8割がた失調していれば、そんな文章は“壊れている”ということになる。
 それでいて、新自動人形のぶざまさがきわめて入念に作り込まれたぶざまさで、それによって観る者を惹きつけたように、ただ下手なだけでなく(ただ壊れているだけでなく)、読んで「面白い」とこちらに思わせる文章は、可能だろうか。

 と、なんだか仰々しく書いておいてありがちな連想に着地するけれども、ドナルド・バーセルミだとか、中原昌也の小説のページをめくっていると、ときどきそんな感触をもつ数行にぶつかることがある。あとは、自分ではほとんど作品を追ってないけど、前に読んだこんな本で論じられている作家も、そんな文章を書いて(切り貼りして?)いそうに思う。
 この人たちの文章の、ぱっと見での“下手さ”と、そこから生まれる妙な面白さはわかりやすい。「こんなことができるのか」とおどろく。
 けれどもいっぽうで、ミルハウザーの精緻な描写を読んでいるときにもやはり、私は文章でしかない文章なるものを強烈に意識する。

 名文家と呼ばれそうな作家の手になる「流れるようにうつくしい描写」なんていうのは、うえで述べた「下手な文章」とは対極にあるはずだ。そういう文章は透明であることをめざしていて、眼はその上を滑るように進み、文字の向こうに(というか文字を介さずに)対象が直接見えるように錯覚する。
 ミルハウザーの文章は名文のほうに近い。すらすら引き込まれて読めるのに、しかし透明にはならず、下手な文章と同じように「これは文章だ、言葉だ」と思わされる。これもまた不思議だ。
 ひとまず、それは題材のせいだと考えることができるかもしれない。
 透明ではなくて、形も重さもある「モノ」、人形やデパートの商品やミニチュアなんかを好んで題材にするミルハウザーは、ふつうそういう「モノ」とは思われていない自然の風景や、それこそ人間を描くときでさえ、それら対象を「モノ」として言葉に置き換える。すると対象はモノ化されてページの上にあらわれる、と書いてみると一応の説明らしくなっているような気もする。
(長篇『マーティン・ドレスラーの夢』には、めずらしく人間女性の登場シーンがけっこうあるのだが、その描写はなにか不自然で、人間を3コマ撮りしたフィルムを見ているようである)

 言葉がモノである以上、どんな文章化も対象のモノ化のはずなのだけれども、ミルハウザーの場合が特別に見えるのは、文章に書くよりも前、はじめに対象をモノとしてとらえる、そのとらえかたが偏っているせいだろう。「はじめに」もなにも、読者の私は、書かれた文章から作家の見かたを逆算するしかないのだが。
 こう書くとミルハウザーがひどく非人間的な作家に思われるかもしれない。でも、人形だとか白黒のアニメーションだとか、非人間的なモノにみずから成り代わりたいという願望(まさしく人間にしか持てない願望)までも作品にまぎれ込ませる作家を、いったい非人間的といえるだろうか?
 と、抽象的なことを書いていてもしかたがない。
 そこであらためて「新自動人形劇場」を読み直してみると、何十回と出てくる「人形」という言葉が、描かれる人形と同じに見えてくる。すべての言葉についてこんな見かたをしていては、小説は読めないだろう。ミルハウザー以外の小説を読むときには、言葉とモノの関係をこんなに意識はしていない。しかも私には、このおかしな意識にまたなりたくてミルハウザーの本をめくるという部分も確実にある。

 モノを描く文章がそのモノになっていること。これがミルハウザーの小説を読んでいかんじるいちばんの不思議さだということを書いてきて、もうずっと堂々めぐりになっている。そのうえ、はじめから自分で堂々めぐりになるように書いてきたんじゃないかという気もして先に進まない。すべてミルハウザーを読んでしまったせいである。
 もう終わりにしようと思うが、最後に「新自動人形劇場」の結末を引用する。
《古い自動人形たちはもはや同じではない。かつての劇場を探し出して、やれやれ有り難いと私たちは入っていく。だが、ひとたび新自動人形の不穏さに触れてしまった私たちは、かつての名匠たちの滑らかで完璧な動きにだんだん苛立ちを覚えていく。その見事な模倣ぶりは、私たちにはもはやからくりの玩具としか思えない。それで、疚しい思いを抱えて、私たちは新魔法劇場へ戻っていく。新しい自動人形たちは私たちを、彼らの人間ならざる喜びと苦しみのなかへと導き、私たちの胸を不安な恍惚で満たす。かつての芸術も繁栄を続け、その存在は私たちを和ませる。だが何か新しい、不可解なものが世界に入ってきてしまったのだ。私たちはそれを説明しようとするが、私たちを惹きつけるのはその神秘だ。私たちの見る夢すら変わってしまった。多くのものが非難したとおり、私たちの芸術は邪[よこしま]な退廃に陥ってしまったのか。それともこれは、われらが芸術のもっとも深い、もっとも暗い開花なのか。誰に決められよう? 私たちにわかるのはただ、物事はもはやもう二度と元には戻らないということだけだ。》pp138-9

 ここに詳しく書き込まれている、新自動人形を体験した観客の気持は、ミルハウザーの小説を読んだ私の気持とぴったり重なる。重なるように、この小説はつくられている。まったくもって、どうしてそんなことができるのか?
 ミルハウザーはおそろしい。私にわかるのは「ただ、物事はもはやもう二度と元には戻らないということだけ」なのだ。




ナイフ投げ師ナイフ投げ師
(2008/01)
スティーブン ミルハウザー

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