2009/03/11

(7) ミルハウザー「新自動人形劇場」のまだ続き



 短篇「新自動人形劇場」に出てくる人形を分類するとこのようになる。

(ア)竜や幽霊といった、架空の存在をモデルにした子供向けの自動人形
(イ)人間をモデルにし、正確に模倣することをめざした自動人形
(ウ)人間をモデルにしながら、モデルを超えた動きをしてしまう自動人形
(エ)何の模倣でもない、モデルのない自動人形(自動人形)

 (エ)を体験してしまったあとで考えれば、(イ)と(ウ)は同じものである。モデルの位置に人間が置かれているのは変わりないからだ。そして(ア)にしても、モデルは実在こそしないが、架空の対象を「完璧に再現」しようとする方向において、やはり(イ)と同じである。以下は(ア)について書かれていた部分。
[…] それらはみな、矛盾を恐れずに言うなら、本物の魔女、本物の竜、本物の幽霊、本物の歩く木である。これらのものたちにあっては、ありえないものを正確かつ完璧に表現するために、からくりの持つ力がありったけ動員されている。現実に属するものが、非現実に属するものを喚び起こすために使われているのだ。それは幻想的なるものの模倣であり、存在しないという一点においてのみ現実の生物たちと異なる生き物たちの細心な表出である。》p119

 ハインリッヒ・グラウムは、何の模倣でもないという点で(ア)(イ)(ウ)とまったくちがう、(エ)の人形を作ったが、大事なのは、それによって人形を変えただけでなく、人が人形を見る眼も変えてしまったことである。新自動人形にはモデルがない。観客は人形を人形として見るしかなくなった。
 実際には、ひとくくりに「人形」といってもいろんな方向があるんだろうし、そのなかには、はなから模倣をめざしていない、自立した人形もあるんだろう。そういうもののほうが多いのかもしれない。だからこの人形とモデルの関係や、そこから変化したあたらしい人形観も、この短篇のなかにとどまるはずのものなのだけれども、この短篇を読むことで、作中の観客の一員に読者もなってしまっているから、私も人形を別の眼で見るようになる。そしてこの短篇にあらわれる「人形」というのは、読者にとっては「人形を描写する文章」なのだった。

 ひとりの自動人形愛好家による報告書のような体裁をとったこの短篇は、自動人形の歴史や意味を語る部分がベースになって、そのなかに、グラウムの人形の詳細な描写がある。
 描写というのは、モデルがあってそれを写すというかたちをとるから(そして読む側では、写された文章を読んでモデルを想定する)、ミルハウザーの文章だって、何かの模倣ということになっている。だからそれは、上に分類したモデルのある人形、(ア)(イ)(ウ)のどれかに似ていると考えられる。
《その十二分間のからくり人生において、エリーゼ嬢は心の葛藤をくぐり抜けるように思える。その葛藤の陰翳の一つひとつが、知性的な目鼻立ちにくっきりと浮かび上がるのである。時にせわしなく、時に気だるく部屋のなかを歩き回って、ベッドに身を投げ出し、窓の外をじっと眺めて、いきなり立ち上がったかと思えばまたいつしか物思いにふける。私たちはこの、大人の知のとば口に立つ無垢に特有の、漠たる憧れと暗い直感に苛まれた少女の魂そのものの内に引き入れられた思いがするのである。完璧に再現されたしぐさ一つひとつが、私たちをますます奥深くに引き入れるように思える。この落ち着かぬ乙女に、私たちは並々ならぬ親密さを感じる。その神秘的な生を、自分の生以上に深く知っている思いがする。上演を締めくくる、長く物憂い、ゆっくりとした、暗い憧れに彩られた欠伸とともに、エリーゼは重たい花のごとくに開いて、その存在のまさしく深奥に私たちを導き入れる。》p127

 人間の「完璧な再現」であるエリーゼ嬢の動きを舐めるように写しとっているように読めるこんな文章からすれば、正確な模倣を旨とする(イ)の人形のありかたが、ミルハウザーの文章の理想であるように見える。
 また、エリーゼ嬢も手品師の人形も新自動人形も、そもそもみんな実在しない架空の人形であって、ミルハウザーの描写は架空のモデルの描写であることに気を留めれば、それは(ア)のような、竜や幽霊を「再現」した文章であるとも言える。その“架空の再現度”があんまり並外れているので、まえに私はミルハウザーの文章を、モデルを超えてしまった人形である(ウ)になぞらえて、「対象を超えてしまった文章」なんて書いた。でも前述の通り、(ア)も(イ)も(ウ)も同じものなのだ。

 でも、こんなふうに書いていても堂々めぐりである。
 ミルハウザーの文章を、それが描き出している自動人形に重ねて説明しようというのは、何というか、レシピの文体を、できた料理から推察しようとするのにも似た無茶なふるまいである。しかも料理の場合なら、“レシピ”と独立したところに(鍋の中とかテーブルの上とかに)“料理の実物”ができあがるのに、“自動人形”は“文章”で描かれるのだから切り離しようがない。はじめから重なっているものを別物のようにとらえて、もういちど「重なっている」というのはマッチポンプである。
 しかし、この、対象と文章のマッチポンプに思い至ってから、私は醒めるどころかもっと夢中になるのである。つまり、(ア)の人形を描くミルハウザーの文章は(ア)の人形に、(イ)を描く文章は(イ)の人形に、(ウ)の文章は(ウ)の人形に、みんなそれぞれ重なっているように読める、それが当たり前だと思わせてくれるところまで連れていってくれるミルハウザーの文章があんまり不思議で、何度も読み返したり、ページを明かりに透かしてみたくなったり、そしてまた、堂々めぐりになるのがわかっているのに描写の仕組みを考えたくなるのである。この短篇に限らず、度を越した芸術品をあつかうミルハウザーの短篇を読むと、いつも同じことが起きる。
 だからミルハウザーの描写をキャッチフレーズ的に言いあらわすなら、それは「対象そのものになってしまった文章」ということになるのだが、ひとつだけ例外がある。

 モデルのない(エ)の新自動人形を描く文章は、当たり前だけど(エ)をモデル(架空のモデル)として描くのだから、モデルを持っているという点で、何の模倣でもない(エ)の人形とは重なっていない。

 否定的な意味ではなく、ここにミルハウザーの描写の(というか描写一般の)限界がある、としてみても、当たり前のことを大げさに言い立てる真似にしかならないのかもしれない。
 逆にとらえて、何ものも模倣していない対象(新自動人形)を、文章は描写によって模倣できる、という非対称な事実(まったく当たり前の事実)をそのまま受け入れればいい気もするのだが、この先に何かあるようにも思うのだ。




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(2008/01)
スティーブン ミルハウザー

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