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(6) ミルハウザー「新自動人形劇場」のまた続き


 ハインリッヒ・グラウムがやったのは、人形にしか見えない人形をつくることだった。それが「新自動人形」である。
 これは、ここだけ見れば単純明快なゴールである。人形は人形、人間は人間。ここに倒錯はない。実際、小説をはじめから読んでくると、ここで急に霧が晴れたような思いがする。「そうだよ、当たり前じゃないか」。私たちは騙されていた。そもそもはこうだったのだ。いまようやく、正しい位置に戻ったのである。
 でもほんとうにそうなのだろうか。
 上のようにまとめてしまうのではなく、ミルハウザーの丹念な文章を追っていくと、“霧が晴れたような思い”こそまぼろしで、従来の自動人形から新自動人形にいたるステップは、倒錯にさらなる倒錯が上塗りされる工程であるように見えるのだ。
 ふつう、人形は何かのモデルを模倣したものとして、何かの代理物として見られる(だから、模倣がうまくできていない人形は“下手な人形”とされる)。これが第一の倒錯だが、これが倒錯であると気づくには、次の段階を待たないといけない。すなわち、模倣の完成度を極限まで高め、人形を人間と見分けがつかなくなる位置にまで押しあげたグラウムが、そのうえで「15センチの人形」-「人間」という嘘の紐帯を絶ち切り、人形を人形として自立させたとき、はじめて第一の倒錯が自覚されるのと同時に、その倒錯はかき消されるように見える
 それでも、生まれてからこれまでつねに自動人形のそばにあり、人間を演じる、人間ではない人形に心を寄せてきた観客たちには、このグラウムの新作が露悪的なまでにはっきり突きつけてくる「人形は人形」という事実は、全面的には認めがたいものである。というか、人間を演じる人形の描写に魅了されてここまで読んできた私もすでに、この明快な人形観を受け入れるには、うしろめたさをおぼえるほどになっている。「そりゃ人形は人形だろうが、しかし」、と。
 おそらくはそのうしろめたさを入り口にして、いったんは人間から遠ざかった人形が、ふたたびこちらの側に入ってくる。人形でしかない新自動人形は、それを見る人間のなかに背徳的な願望を(それこそ非人間的な願望を)呼びおこす。
《四肢をぎくしゃく動かすたびに人形たちがおのれの現実ならざる本性を見せつけるなか、私たちは彼らの魂に引き込まれていく思いがする。私たちは彼らのぶざまさを共に苦しみ、彼らの人間ならざる渇望に心を刺される。自分でもよくわからない形で私たちは胸を打たれる。これら不思議な新参者と混じりあいたい、彼らのからくり人生に入っていきたいと私たちは希[こいねが]う。時おり、私たちは暗い理解を、共犯意識を感じる。ということはつまり、彼らの前にいるとき、私たちは単に人間的なものを、制限でしかないものを脱ぎ捨てられるということなのだろうか? 自分を解き放って、より大きな、より暗い、より危険な領域に入っていけるということなのだろうか?》p137

 ここにいたって、人形でしかない自動人形により、人形と人間の境界が揺るがされるのである。
自分でもよくわからない形で私たちは胸を打たれる。》という一文でもって、読んでいる私は語り手の一人称複数「私たち」と完全に重なり、そこに同化させられたうえでこのような感情に飲み込まれていくのをかんじるのだから、そのみなもとにある「人形は人形」という至極まっとうなはずの受け取りかたも、これはこれで「第二の倒錯である」と言っておかないと危ないんじゃないかという気がするのである。
 そして、そんな気がしている時点でもう手遅れじゃないかという不安もおぼえるのだが、まさにこの不安を求めてミルハウザーの読者は小説を読むのである、と断言してみた。
《こうして新自動人形たちは、私たちにとり憑いていく。彼らは私たちの心に侵入してきて、私たちの内部で増殖し、私たちの夢に棲みつく。彼らは私たちの内部に、新しい、禁じられた、名付けようもない情熱を目覚めさせる。》p137




ナイフ投げ師ナイフ投げ師
(2008/01)
スティーブン ミルハウザー

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