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2009/02/21

(4) ミルハウザー「新自動人形劇場」の続き



 ハインリッヒ・グラウムのキャリアの前半は、ほかの名匠と変わるところはなかった。
 五歳から工房に入り、《七歳にして、六十四の動きをこなす二センチのナイチンゲールを組み立てた》。その翌年には、バランスを取りながら綱渡りをする自動人形を完成させている。しかしながら、
《このどこを見ても、若きハインリッヒを、あまたの優秀な徒弟と隔てるものはなかった。しばしば誤ってそう言われるが、彼は決して神童ではなかった。子供の徒弟のなかには、もっとずっと高水準の早熟ぶりを示す者がいくらでもいて、親方はむしろそれをある種の懐疑心をもって眺めている。機械的細部を徹底して究めることが何にも増して求められるこの芸術にあって、あまりに早い成功は、往々にして若き徒弟に誤った熟達意識を与えてしまう。》p124

 とはいえハインリッヒはそんな落とし穴に落ちることなく研鑽を積み、まず自動人形の「手」のからくりに興味を集中させた。そして、手品を行う自動人形と、十八センチの精緻なグランドピアノで『月光のソナタ』第一楽章をまるまる演奏する自動人形を作りあげる。それから「顔」の研究にさらなる年月を費やして、「エリーゼ嬢」という名の自動人形を完成させたのは彼が二十歳のときだった。
《その十二分間のからくり人生において、エリーゼ嬢は心の葛藤をくぐり抜けるように思える。その葛藤の陰翳の一つひとつが、知性的な目鼻立ちにくっきりと浮かび上がるのである。時にせわしなく、時に気だるく部屋のなかを歩き回って、ベッドに身を投げ出し、窓の外をじっと眺めて、いきなり立ち上がったかと思えばまたいつしか物思いにふける。私たちはこの、大人の知のとば口に立つ無垢に特有の、漠たる憧れと暗い直感に苛まれた少女の魂そのものの内に引き入れられた思いがするのである。完璧に再現されたしぐさ一つひとつが、私たちをますます奥深くに引き入れるように思える。》(p127 強調は私)

 ものすごいことになっているわけだが、太字にした部分で示される方向ははっきりしている。ついでに引用すると、上演の終わり、
《長く物憂い、ゆっくりとした、暗い憧れに彩られた欠伸とともに、エリーゼは重たい花のごとくに開いて、その存在のまさしく深奥に私たちを導き入れる。それは比類ない精神的深みが達成された瞬間であり、ハインリッヒ本人が当時恋愛していた形跡がないことを思えばいっそうの偉業と思えてくる。》(同)

 ここの最後のくだりに「何言ってやがる」と私は笑った。これはぜったい、真面目くさった顔と深刻な口調で馬鹿なことをいうギャグだ。
 それはともかく、先ほど太字にしたように、

(a)「モデル」 → (b)それを再現する「人形」

という関係は、ごくふつうに受け取りやすいものである。もちろんこれは小説なので、(a)「モデル」も(b)「人形」も実在しない。ここにあるのは

(a)「モデル」 → (b)それを再現する「人形」 → (c)それを描く「文章」

 このうちの(c)「文章」だけであり、それがあってはじめて(b)「人形」、さらに(a)「モデル」が存在することになる。書かれたものを“読む”という行為において、上のふたつの矢印が逆転するのだ。これは小説だけでなく、文章表現一般のありかたであるだろう。
 
 話を戻すと、人形は、あくまでそれに先行するモデル(人間)の再現を目標とする。その到達点がエリーゼ嬢だった。
 しかし、じつはこの時点よりも前、十四歳のときに製作した、手品を行う自動人形において、ハインリッヒはある逸脱の徴候を見せていた。
 問題の人形は、それまで一度も試みられていなかった三種の手品を演じたのだけれども、
《そのうちのひとつは、人間の手品師に誰一人再現できる者がいないことが判明して、いささか物議をかもすことになる。手の筋肉組織を、人間の能力を超えた域にまで改造したことを若きハインリッヒは白状し、それに関して軽い叱責を受けた。》(p126 強調は私)

 と、こういうことがあったのである。ここでの再現という言葉は、さっきと方向が反対になっているのに注意したい。人形の動きを人間が再現しようとし、しかも再現できなかった。人間に似せることをゴールとしてもつ自動人形に、人間を超えた動きをさせてしまう。これは、人間をモデルにしながら、モデルを超えてしまった人形なのである。
 それからハインリッヒは“正しい”方向に戻り、人間を「完璧に再現」するエリーゼ嬢を作ったのだが、こちらの手品師ですでにかたちをとっていた「モデルを超えた人形」というありかたは、ただのやりすぎとして忘れてしまうにはあまりに特異である。
 いや、特異というか、そういうものを自分はどこかで見たことがある、という気がしてくるのだ。どこかも何も、いま読んでいる、ミルハウザーの文章がそういうものではないか。もういちど、「エリーゼ嬢」の描写を貼り付ける。
《その十二分間のからくり人生において、エリーゼ嬢は心の葛藤をくぐり抜けるように思える。その葛藤の陰翳の一つひとつが、知性的な目鼻立ちにくっきりと浮かび上がるのである。時にせわしなく、時に気だるく部屋のなかを歩き回って、ベッドに身を投げ出し、窓の外をじっと眺めて、いきなり立ち上がったかと思えばまたいつしか物思いにふける。私たちはこの、大人の知のとば口に立つ無垢に特有の、漠たる憧れと暗い直感に苛まれた少女の魂そのものの内に引き入れられた思いがするのである。完璧に再現されたしぐさ一つひとつが、私たちをますます奥深くに引き入れるように思える。この落ち着かぬ乙女に、私たちは並々ならぬ親密さを感じる。その神秘的な生を、自分の生以上に深く知っている思いがする。上演を締めくくる、長く物憂い、ゆっくりとした、暗い憧れに彩られた欠伸とともに、エリーゼは重たい花のごとくに開いて、その存在のまさしく深奥に私たちを導き入れる。》

 エリーゼ嬢はモデルを「完璧に再現」した自動人形だが、いま見たいのはそこの関係(人間→人形)ではない。もっと大きい意味で、ここに描かれているもの(エリーゼ嬢)と、それを描いているもの(文章)の関係だ。
 このミルハウザーの文章のはたらきが、それによって描かれる自動人形のありかたと、相似であるように見えてくるのである。
 人間を模した人形でも、竜や幽霊の人形でも何でも、これらの自動人形は、小説の外には実在しない。モデルをカメラでじっくり写すようにして、自動人形の姿と動きを丹念に描き出すミルハウザーの文章は、これら架空の対象を、ゼロからつくり出している。
 人形によるモデルの再現も、文章による対象の描写も、本来は“模倣”という同じベクトルをもつ。それでいてモデルを超えてしまった手品師の人形を「モデルを超えてしまった人形」とさっき言っておいたが、それに沿えば、ミルハウザーの文章は「対象を超えてしまった文章」であるように思われる。実在しない精巧な自動人形なるものを、ただの文字を連ねた描写の力でもって、たしかにページの上に存在させてしまうのだから。
 エリーゼ嬢を描いている文章がエリーゼ嬢なのである。

 ――しかしそれだけなら、ミルハウザーは極度に描写がうまい作家、ということで終わりになる。先にも書いたように、実在しないものを文章化することで実在するかのようにみせるのは、文章表現一般のはたらきだからだ。
 もちろんそれだけでもすごいのだが(つまり「だけ」なんて言ってはいけないのだが)、ミルハウザーをミルハウザーたらしめるのは、次の一歩である。
 ハインリッヒ・グラウムの仕事に戻ろう。




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