趣味は引用
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
(3) スティーヴン・ミルハウザー「新自動人形劇場」

[…] ミルハウザーの小説ではよく、きわめて職人的な芸術家が登場し、その芸を見る見る高めていって、世間にもてはやされるが、やがて芸があまりに高度になっていって、大衆から見放されるものの、芸の道はいっそう究められ、もはや自壊するしかないところまで上りつめていく。対象が自動人形であれ百貨店であれ奇術であれ、彼ら広い意味での芸術家の、その危険なまでに精緻な芸に似ているものを作品中に探すとしたら、まっさきに目につくのが作者ミルハウザーの精緻な文章であることは、ほぼ自明の事実だろう。》p277

 これは『ナイフ投げ師』巻末の訳者あとがき(柴田元幸)で、「さすが」というのも無用なくらい的確な評言だと思う。前半にまとめられている筋の運びをミルハウザーの“定型”のひとつとすれば、中篇「J・フランクリン・ペインの小さな王国」『三つの小さな王国』所収)も、長篇『マーティン・ドレスラーの夢』も、おなじ定型を踏んでいる。
 ごく短い、30ページ足らずの「新自動人形劇場」でめざされているのは、この定型を物語として十全に展開することではなくて、定型のなかで起こる「芸」の推移のほうに焦点を当てることだと思う。定型が多くの作品に共通するものならば、ここで具体例として選ばれた自動人形という「芸」のたどる進化と発展の道すじは、ほかの多くの作品と共通するものになるだろう。もしかすると、上の引用の後半にある、「作中に描かれる芸術」と「ミルハウザーの文章じたい」との重なりかたを、この短篇から読み取ることもできるかもしれない。
 とはいえこれから私がやるのは、ページ順にたくさん引用するだけである。だって、それだけでミルハウザーの作法はだれにでもわかるように書かれているのだ。
《私たちの市は自動人形劇場を誇るべくして誇っている。》p115

 短篇はこうやってはじまる。ぜんまい仕掛けのからくりで動く自動人形の劇場が伝統となっている市を舞台にして、いくつものとびぬけた人形をつくったひとりの人形製作者の作風が変化していく様子を分析していくのだが、その前に自動人形とは何かが詳しく説明され、その起源や発展の歴史についての考察がもっともらしい語り口で述べられている。
 それによればこの市には、子供向けから大人向けまで無数の劇場があり、一年間に八百を越える劇団が上演を行っているという。
《わが市の博物館に保存されている十八世紀のからくり芸術にも、たしかに独自の魅力と美しさはあるものの、動きの再現という点では現代の作品に遠く及ばない。この面においてはきわめて急速な発展が生じており、今日の十二歳の徒弟の方が、ごく初期の名匠の上を行ってすらいる。何しろ彼ら徒弟は、五百種類以上の動作を行う人形を作り出せるのだ。そして周知のとおり、過去二世代のあいだに、わが名匠たちは、生身の人間に可能な動作をすべて、ひとつ残らず自動人形において再現してみせた。》p118

《したがって、私たちの芸術は、基本的に模倣を事とする。ひとつ進歩が遂げられるごとに、生の領域をまた一歩侵したことになるのである。[…] これはいわば方法のリアリズムであって、空想や幻想を排除するものでは決してない。まず第一に、児童劇場と本来の劇場、という伝統的な区分がある。児童劇場では、どれほど度しがたい夢想家の想像力も満足させるであろうほど多くの魔女、竜、幽霊、歩く木等々に出会う。だがそれらはみな、矛盾を恐れずに言うなら、本物の魔女、本物の竜、本物の幽霊、本物の歩く木である。これらのものたちにあっては、ありえないものを正確かつ完璧に表現するために、からくりの持つ力がありったけ動員されている。現実に属するものが、非現実に属するものを喚び起こすために使われているのだ。それは幻想的なるものの模倣であり、存在しないという一点においてのみ現実の生物たちと異なる生き物たちの細心な表出である。》p119

 この基本的な図式にあって、「モデル」と「その人形」の関係ははっきりしている。実在するにせよしないにせよ、まずモデルというものがあり、人形はそれにどれだけ似せられるかによって評価される。だから進歩は直線である。
 ただし、評価軸がそれだけではないことも、《自動人形は背丈わずか十五センチにすぎない》という事実によって示される。それよりずっとモデルに近いはずの等身大の人形を作っても、この市では笑われるだけなのだ。
[…] 自動人形の芸術自体がもたらしてくれる快楽の本質という問題がある。この快楽が、部分的には模写の快楽、類似の快楽であることを否定するのは愚かというものだろう。とにかくそれは、完璧に達成された見せかけが与えてくれる快楽なのだから。だがこの快楽はまさに、もうひとつ別の、第一の快楽とは対立する快楽に依存している。あるいは模倣の快楽自体が、実は二つの相対立する部分に分割しうると言ってもいい。》p119

 もったいぶった書きかただが、語り手の言いたいのが極めて当然のことであるのはすぐわかる。というか、自分はそれを前から知っていたとさえ思う。これである。
《この第二の楽しみ、もしくはこの模倣の快楽の第二の部分とは、似ていないことの快楽にほかならない。ひそかな悦びとともに、私たちは見せかけが物それ自体ではないこと、ただの見せかけでしかないことをさまざまな面から見てとる。見せかけ自体が真に迫れば迫るほど、この快楽も増してくる。何しろ私たちはもう子供ではない。自分が劇場にいることを忘れたりはしない。》(同)

 この点をきっちり押さえたうえで語られるのが、ハインリッヒ・グラウムという男の手になる数かずの作品なのだけれども、その変遷を論じるにあたって必要な布石は、ここまでですべて打ってあることにいま再読して気がつき、あらためておどろいている(短篇はここまでで1/3程度)。




ナイフ投げ師ナイフ投げ師
(2008/01)
スティーブン ミルハウザー

商品詳細を見る
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。