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(2) 前回の続き


 CGと、それ以前の特殊撮影技術。どちらにも詳しくないので、そこにどんな決定的なちがいがあるのか、私にはよくわかっていない。
 だから前回のぶんも今回のぶんも個人的な感想でしかないのだけど(いつだってそうだ)、実写映画の一部として使われるCGは、たぶん、本物になろうとしている。見る側が、本物と区別のつけられない映像になろうとしている。「本物そっくり」ではまだだめで、「え、本物じゃなかったの?」「CGだったなんてウソでしょ?」と思わせるのが、CGのめざしている方向なんじゃないだろうか。CGは、CGとして見られたくない。
 
 それに対して、と勝手に並べてしまうが、たとえばゴジラでもウルトラマンでもなんでもいいけど、そういった巨大怪獣・巨大ヒーローものの破壊シーン・格闘シーンで、舞台や背景として広がる街並みのミニチュアには、一途な本物志向とはべつの目標があったようにかんじる。

 ミニチュアの街並みだって、もちろん、できるかぎり本物に似せようと作られているんだろう。当たり前だ。でもそのいっぽう、どこかの段階で、ミニチュアであることにとどまり、自足しているようにも見えた。
 見る側の私は、それを本物の街並みではなく、ミニチュアとして見ている。本物の街並みを、こういうミニチュアで表現しているんだね、という受け取りかた。小さな雑居ビルと木造二階建て家屋の隣に、さらに小さな赤い自動販売機があって、サイズからいったら太すぎる白の波線でコカコーラの自販機なのが示されている、みたいなものを見ると、「それで充分だ」と思って、ミニチュアを本物の街並みに「見立てて」あげていた。
 もっとも、雑なミニチュアにはそこまでやさしくなれない。ある一線を越えて細かく作り込まれたミニチュアに対してだけ、それを「本物に見立てる材料」としてOKにする転換が起きていた(それだって、最近のCGで描かれた街並みに較べたらずっと雑な作りだったはずだ)。
 
 画面にあるのは「本物そっくりの偽物」でしかなくても、「どうせここに映っているのは本物ではない」と思って見ているのだから、「本物に見立てる材料」としてOKなら、「本物そっくりの偽物」は、「偽物」ではなくなる。
「(ミニチュアなのに)波線まで描いてある!」
「(ミニチュアなのに)電線がたわんでいる!」
 そういう部分に気付いたとき、私はミニチュアをミニチュアとして、ミニチュアという本物として、見るようになる。
 ミニチュアは、はからずも、ここでゴールしているんじゃないだろうか。
 そして、CGが「本物と区別がつかない」地点をめざすかぎり、これはCGにとっての目標にはなりえない。
(CGが「本物の街並み」を再現するのではなく、「本物の街並みを再現しようとするミニチュア」を再現しようとするなら、その倒錯を私は「いい!」と思ってしまう気がする。CGじゃなくてアニメだが、「トップをねらえ!」で、巨大ロボット・ガンバスターの足から出るジェットブースターの噴射炎(?)が、いかにもそれらしい炎ではなく、わざわざ古い特撮物の、しょぼい炎として作画されているところに感激してしまったように。
 これはただのえこひいきかもしれない。「倒錯しているものは、いい」という好みはきっとめずらしいものじゃないと思うけれども。閑話休題)

 大事なのは、私よりCGをよく見ている人になら、CGの進化の方向を「本物になること」とは別であるとして、上で私がミニチュアについて書いた部分をCGに置き換え、CGがCGであることに自足する瞬間を見て取ることもきっとできるんだろう、ということだ。CGを現実の代理物としてでなく、CGとして見る眼である。
 ミニチュアもCGも、まずはじめには「本物でない偽物」として作られるという点で同列にあり、私の見かたが不公平なのはまちがいない。

 でも、いまはこれ以上に話を進めるつもりはなくて、さらにまた、人間の声とボーカロイドの関係なんかに話を広げるつもりもなくて、ここまで書いてきたことは、じつはミルハウザーの短篇を読み直してみる口実だった。
 作品集『ナイフ投げ師』に入っている、「新自動人形劇場」というのがそれである。




ナイフ投げ師ナイフ投げ師
(2008/01)
スティーブン ミルハウザー

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