2009/02/14

(1) 映画「幻影師アイゼンハイム」(2006)

幻影師 アイゼンハイム [DVD]
ニール・バーガー監督


 先日、TSUTAYAで借りて見た(→公式サイト)。
 スティーヴン・ミルハウザーの短篇「幻影師、アイゼンハイム」(『バーナム博物館』に所収)を原作にしたもので、「別物になっている、それも、私の苦手な恋愛ものになっている」のをおそれるあまり、去年の劇場公開時には見に行けなかった。
 おそるおそるDVDを再生してみると、「主人公が幻影師」というところはそのままに、原作のうしろにある舞台設定を前に出し、原作に出てこない登場人物をつけたして、原作に出てくる登場人物にも原作にない過去を加え、原作に出てこない事件と原作に出てこない展開を積み重ねる、つまりはぜんぜん別物だったから、かえってふつうに見ることができた。ラストには「なるほど」とおどろいた。
 しかし別物であっても「それはどうか」と思ったのは、「奇術をCGで表現してしまう」ことだった。

 原作は――って、やっぱり原作の話になるのだが――世紀末のウィーンに現れた奇術師が、怪しく物憂げな雰囲気のなか、無い物を在るように見せる幻影の技を高めに高め、徐々に徐々に、生物には越えられないはずの境へ接近してゆく過程を描いたもので、早い段階からそこに不穏さをかんじとった観客の熱狂は次第に激しくなり、たかが一奇術師を相手に警察が動き出す。警察の仕事が社会の風紀と秩序を守ることだとすれば、それはたしかに正当な反応だった。
《署長を不安にしたのは、もっと別の何ものかであった。彼のノートには一度ならず、「境界の侵犯」という言葉が否定的なニュアンスをともなって現われる。どうやら彼はその表現を通して、しかるべき区別は断固維持されねばならないということを言わんとしているように思われる。芸術と人生、というのがそうした区別のひとつだし、幻影と現実、というのもそうである。アイゼンハイムはそうと知りつつ境界を侵犯したのであり、したがって物事の中核をかき乱したのである。》(強調は私)

 そんなわけだから、幻影師の性格はぜんぜんちがっても、映画でも奇術は行われる。何度も、何種類も、行われる。それが多くの場合、「はいCGで作りました」とすぐわかるCGなのだった。なんだか画面から浮いて見えるし、質感もちがう。
 とはいえ、CGだからがっかりする、というのも不思議な反応である。
 舞台上で主人公が鉢に種を植えると、すぐに芽が出てすくすくと伸び、葉を茂らせ実をつける、葉群からは蝶が飛んで出る、なんていう奇術は、作中ではじつは機械仕掛けということになっているが、そんな精妙な機械を実際に作れるはずはないから、CGを使って映像にするのがいちばんいいやりかただったんだろうと思う。
 それなのに、画面を見るとどうにも白けてしまう。
 そして、これがCG以前の特殊撮影技術や、あるいは手の込んだ小道具で表現されていたとしたら、たとえそちらのほうがCGに較べて数段ちゃちなものであったとしても(確実にそうなる)、たぶん私は、ここまで「何だかなあ」とはかんじなかったと思うのだ。
「はいCGで作りました」から来る失望は、ことのほか大きい。CGを作るのだって地道な創意工夫の積み重ねだろうに、そして、そこに費やされた膨大な手間ひまを想像できないわけではないのに、これはいったいなぜなのか。

 私はCGに詳しくないし、そもそも映画もそんなに見ていないのだけど(あるいは、詳しくなくて見ていないからこそ)、きっとCGは万能なんだと信じている節がある。なんでも表現できる、なんでも映像にできる。いまはちゃちな出来になってしまう表現でも、いずれ技術が向上して、本物と寸分たがわない映像にできるのはまちがいない、と思っている。
 そしておそらく、なんでも表現できる(と思っている)ために、CGに対して、なんだか気持が冷めるのである。「だって何でもできるんでしょ、何でもできるものが何でもできたからといって、だから何」。こう書いてみると勝手だが。
 だから、完璧に画面に馴染み、ほかのものとまったく同じ質感を伝えるCGができたとしても、それでも「完璧なCGだから、つまんない」という感想を抱く気がする。

 でもこれも、もう少し考えてみないといけない。
 まず、「完璧に風景の一部と化して、CGと気付かないCG」に対しては、そのような否定的な気持は生まれるはずがない。気付かないんだから。だからそれはそれでいい。「いい」という判断も謎だが。
 では、実写をベースとする映像のなかで、「自分の目ではCGだとわからないが、それ以外の方法ではありえないと思われるので、CGだと判断される映像」には、どんなによくできていても、白けてしまう、ということだろうか。
 しかし、なんだかんだいっても派手な爆発やゴージャスな絵づくりは、少なくとも見ているあいだは、無条件に楽しい(そういう一部分だけを、全篇がCGでできているアニメに近いものとして見ている)。
 そういう問題ではなくて、どうやら自分のなかに、「CGで描いちゃだめなんじゃないか」と思っている対象が、あるようなのだ。
 まわりくどくなってきたが、私が抵抗をおぼえるのは、「映画のなかでは実際に起こったことになっている非現実的な出来事を、あっさりCGで画面の上に現出させてしまう」こと、のようである。
「あっさり」というのはCGを作る労力を無視して言っているのではなくて、CGで現出させる、というやりかたじたいに対する印象だ。
 そして、まさにその「映画のなかでは実際に起こったことになっている非現実的な出来事」なのだ、“奇術による幻影”は。

 奇術が「現実には存在しないものを、現実に存在するものを使って、存在するかのように見せる」技だとすれば、真ん中を抜かして、画面上に「現実には存在しないものを、存在するかのように見せる」ことができるCGは、やっぱり奇術ではない。
 それなのに、奇術を使ったのと同じ幻影をCGが作り出せるようになったら、そのときCGは、奇術を十全に表現するというよりも、奇術を殺すことになるんじゃないだろうか。
 いや、何か大げさすぎた。言い直す。
 CGを使った映像表現は現代の奇術ということになるんだろうけど、その奇術と幻影師の奇術は、別の種類のものである。「幻影師の奇術」の表現としてCGが使われ、両者が画面の上で同じものになってしまうことに、私は抵抗をおぼえる。
 だって、俳優がじっさいに奇術を演じているのを写したのではないとわかっている以上、どんな方法を使っているにしても、画面上の奇術は、奇術ならぬ「奇術の真似事」だ、という前提で私はそれを見ているのである。だから奇術は「奇術の真似」どまりでいい。奇術を見せてほしいと思っていたら、映画館じゃなく奇術のショーに行く。
 逆に、区別がつかなくちゃ、「おお、奇術を奇術じゃない方法でがんばって表現している」と思えなくちゃ、私は感激できないようなのだ。そんな予感がする。感激はしたい。これはわがまままだろうか?
 これから先、奇術と区別がつかないCGが出てきたら、私は逆に「奇術じゃないのに奇術の顔をしているCGって何様だ」と腹を立てるように思う。
 というかそうなったら、目の前の映像が本物の奇術を写したものなのか、CGでで作ったものなのか区別がつかないわけだから、ものすごく焦ると思う。これもわがままだろうか?
 そんな私は、やっぱり奇術ショーに行くべきなのかもしれない。
 (だけど私は、奇術が見たいだなんて一言もいっていないのである!)

 ――と書いてきて、まったく意外なことに気がついた。いま私の心をざわつかせているさざ波を、「つけるべき区別がつかなくなってしまう」ことに対する困惑と警戒だとすれば、それは短篇「幻影師、アイゼンハイム」のなかで、奇術師の技によってせせら笑われる、国家に忠実な警察署長の困惑と警戒に、気持悪いくらいうまく重なるようなのである。先にした引用を、今度はその続きも加えて、もういちど貼ってみる。
《署長を不安にしたのは、もっと別の何ものかであった。彼のノートには一度ならず、「境界の侵犯」という言葉が否定的なニュアンスをともなって現われる。どうやら彼はその表現を通して、しかるべき区別は断固維持されねばならないということを言わんとしているように思われる。芸術と人生、というのがそうした区別のひとつだし、幻影と現実、というのもそうである。アイゼンハイムはそうと知りつつ境界を侵犯したのであり、したがって物事の中核をかき乱したのである。要するにウール署長は、宇宙の根本を揺るがしたといってアイゼンハイムを非難したわけである。アイゼンハイムは現実の土台を揺さぶったのであり、その結果それよりさらにずっと悪質な行為を行ったのだ――すなわち、帝国を転覆せんとしたのである。なぜなら、ひとたび境界という理念が曖昧で不確かなものになってしまったら、帝国はいったいどうなってしまうのか?》(強調は私)

 小説を読んでいて、感激したりおどろいたりすることはよくあるが、動揺するのはめずらしい。




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(2002/08)
スティーヴン ミルハウザー

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