2009/01/16

長嶋有『電化製品列伝』(2008)

電化製品列伝
講談社

《別に電化製品が「好き」なわけではない。》p188

 こうやって私は自分の読んだ小説について何かしら書き連ねるブログをやっているわけだけど、おなじようなことをしている全国の何万という人のなかで、この『電化製品列伝』を読み「やられた」と思わない人間はひとりでもいるだろうか。
 いきなりねじれた書きかたになった。本書は、「電化製品が描かれていること」を条件に選ばれた小説作品の、その「描かれかた」にのみ注目する書評集である(一部、映画や漫画も含まれる)。
 いきおい、取りあげられるのは現代ニッポンの(70年代後半からこっちの)作品が多くなるが、ただし条件はもう少しきびしくて、「電化製品がノスタルジーの対象になっているもの」はバツだし、「擬人化されていたり、何かのメタファーとして使われる」場合もだめである。
 つまり、「電化製品が電化製品として、モノとして」描かれている場面にのみ、長嶋有の熱い視線はそそがれるのである。
 そんなことをして何が得られるのか。それは本書の最初に置かれた、あの大ベストセラー恋愛小説を扱った部分を読めばおのずとわかるようになっている。
川上弘美の『センセイの鞄』は二〇〇〇年代の恋愛小説の傑作であり、今なお多くの文芸批評家がさまざまなアプローチで熱く語る、現代の文学史上でも重要な一作といえる。
 だが、この作品の第一話で描かれた「電池」について論じた文章をぼくはみたことがない。》p11

 そういって長嶋有は「電池」について語りはじめる。
 だれも論じていなかった点を論じれば、それだけで意義はある。これはまちがいない。そしてそのうえで、その一点、その電化製品から、小説が丁寧に読みほどかれるのである。
 だれもみていなかった視点を発見する注意力でもって作品を読むのだから、ほとんど当然のように、観察はするどく、説明はわかりやすい。乾電池をめぐる考察(それはそもそも電化製品なのか)、それを扱う登場人物の手つき、といったところから解読される『センセイの鞄』は、まるで乾電池を中心に組み立てられた小説であるかのような相貌をみせる。それはきっと錯覚なのだろうが、いちめん本当のことでもあるのだ。たしかに乾電池はそこに描かれているのだから。
 そんなブレない視線で、伊藤たかみ『ミカ!』の「ホットプレート」や、柴崎友香『フルタイムライフ』に出てくる「シュレッダー」(オフィス家電!)吉本ばなな『キッチン』の「ジューサー」だとか、かわったところではアーヴィン・ウェルシュ『トレインスポッティング』から「電気毛布」といった、さまざまな電化製品にスポットが当てられて、くわしい分析がほどこされる。
 いつも「その家電品の形態と用途、特徴」から語りおこされる説明は、それこそ家電品のカタログを並べてスペックを検討するかのようで、ひたすら具体的である。モノを集めた結果、書評集は具体例のかたまりになった。これもまた当然ではある。
(正直、取りあげられる17作品のうちで私が読んだことがあったのは半分に満たなかったのだけど、それでもぜんぜん読みにくくないのは、この具体性のおかげだろう)

「小説のなかにはほかにもいろいろなことが書いてあるだろうに、どうして長嶋有は電化製品にだけ目をとめるのか」、という問いは、「ほかにもいろいろ書くことがあるだろうに、どうしてその作家は“それ”を書いたのか」、という問いとして裏返すことができる。“それ”は電化製品だけでなく、その作品ぜんたいのことである。
 限られた分量で何かを書くことは、いや、そもそもが限られている言葉でもって何かを書くことは、ほかの何かを書かないことであり、つまり、取捨選択することである。
 そんなことはもうさんざん繰り返し言われているだろうけど、長嶋有がいさぎよく「電化製品の描かれる場面」だけに視野を限り、それでもって作品から、作品じたいより大きい「作者の視線のありかた」みたいなものを再構成してみせる様子には、書くことと読むことにおける取捨選択の勝負、といった気配さえある。いや、勝負というよりは、やっぱり「理解してあげる」かんじだろうか。作家が世界をみる観察、その観察のしかたをこちらはちゃんと観察してあげますよ、というような。
 とりわけ、「グローランプ」を鍵にして干刈あがたの『ゆっくり東京女子マラソン』を論じ、まだ言葉として定着していないような日常の行いを果敢に取り込んだと賞賛する文章は、あくまで具体的なまま、共感と敬意にみちた読みものになっていて、最後の一文はかなり沁みる。
 あと、個人的な好みでは、尾辻克彦の短篇「肌ざわり」で、ブラウン管テレビを消したあとの様子を観察したシーンを取りあげた章は、もともとのテキストじたいが、ほかの小説だったらはげしく馴染まないだろう具体的描写で出来ているだけに(描写というか説明なのだ)、それをさらに説明しようと立ちむかう長嶋有の文章にも力が入っていて、両者のファンである私にはえらく楽しめた。
 そして、作品のセレクトとして「それはもう反則じゃないか」という感想を抱いたのが、高野文子の漫画「奥村さんのお茄子」(『棒がいっぽん』所収)で、それがなぜ「反則じゃないか」なのかを未読のかたに説明するのは至難なのだが、私は長嶋有に指摘されるまで、あの傑作漫画の舞台が「電機店」であることを意識していなかった自分に愕然とした。そしてあらためてあの漫画に愕然とした。
《[…]本筋と無関係の描写のすべてを、かつて自分も見た気がする。
 一二八ページで引用した「ドカーン大売出!」と書かれた札を天井に取り付ける奥村さんを宇宙人が見上げるアングルを、僕は今でも思い出すことができる。自分がみたかもしれない、みたことがないかもしれないけど、よく分かる風景なのだ。
 なつかしい、とか、ほっとするような、とか、ささやかな、といったあらゆる「修辞」を排して、それらの光景「だけ」をダイレクトに届けられた気がする。》p133

 引用した最後の段落は、「奥村さんのお茄子」を凝縮したものであるのと同時に、高野文子の全作品にあてはまる読後感であるように思う(で、この『電化製品列伝』の装画は高野文子なのである)。
 
 なにしろ読みやすいので大急ぎで読もうと思えば読めてしまうが、ゆっくり読むほどに、何気なく書かれているようにみえた観察の細かさに立ち止まり、何度も何度も味わいなおすことができる。それから、説明されている小説を自分で読みなおすこともできる。すごく親切な書評集だと思った。そして、書評の親切とは「具体的であること」か、とも思った。


棒がいっぽん (Mag comics)棒がいっぽん (Mag comics)
(1995/07)
高野 文子

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追記:

 吉田修一『日曜日たち』を扱ったところにこういう部分があった。
《『日曜日たち』では「男たち」のつかうリモコンが実にうまく描かれているが、僕は女性がリモコンをつかう様も好きだ。ノースリーブの女性がえいっと確信をこめて押す。上品な女性が、おずおずと押し込む。疲れた女性がソファに倒れ込んで卓上のリモコンにかろうじて手をのばす。リモコンは「意思」を具現化させる道具だから、意思の表明する瞬間は、それがつまらない意思でも、少し美しい。そしてその美しさはリモコンのフォルムに象徴されている。リモコンは使い手の意思を信号にして発信するわけだが、信号とは赤外線だ。つまり、我々の意思(音量をあげたい、冷房をつけたい)は「直線」になる。》pp36-7

 これはもう、ほんとうに勝手な想像なのだけど、長嶋有もユニクロックは好きなんじゃないだろうか。

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