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2008/12/09

ビオイ=カサーレス『モレルの発明』 [18] (了)


モレルの発明 (フィクションの楽しみ)


 最後に私が考えたのはこんなことだった。

「私」の手記を、最も作為に満ちたものとして読むと、こういうことが言えると思う。
 モレルという人物は存在しない。人間を記録・再生する機械を発明したのは「私」であり、彼はその機械で恋人フォスティーヌを含む友人たちと過ごした7日間を保存した。被写体になった人間たちは死ぬ。「私」のしたことは一種の殺人であり、彼は罪に問われて司法の手に追われ、逃げ出した。
 本人的には、友人たちを“不死”にしたのであり、みすみす捕まるのは道理に合わない。だから「私」は別人になりすます。自分があの機械の発明者ではない証拠として、機械のことを何も知らない人間が「連中」(=友人たち)に出遭い、徐々にその正体を知っていく過程を偽の手記として書いていく。手記のなかでモレルの言動として書かれているのは、じつは「私」の言動だった。そして、自分だって被写体だった以上、「私」もやがて死ぬのである。
 もしこれが事実なら、モレルは「私」をオリジナルとするコピーあり、「私」とモレルは同一人物である。しかし、そこまではっきりとは書かれていない。

 逆に、「私」の手記を最も作為のないものとして読むと、こういうことが言えると思う。
 すべては「私」の妄想である。自分が無実の罪に問われて逃亡したことも、それで島に渡ったことも、そこで「連中」に遭遇したことも、そのなかにモレルという人物がいて奇怪な不死論を語ったことも、すべては「私」の狂った頭脳が生んだフィクションである。
 もしこれが事実なら、モレルは「私」の空想の産物なのだから、モレルの言動はすべて「私」が作ったものであり、「私」とモレルは同一人物である。しかし、そこまではっきりとは書かれていない。

 アドルフォ・ビオイ=カサーレスの書いた『モレルの発明』という小説に、手記の書き手として「私」は存在する。これだけは確かである。この手記をどう読むか。
 上に書いたように、正反対の方向でそれぞれいちばん偏った読みかたをしたとき、その両極においてモレルという人物は消え去って、「私」とモレルは重なる。どちらの場合も「そこまではっきりとは書かれていない」以上、このふたつの極のあいだのどこかに、『モレルの発明』は浮かんでいる。そのあいだにあるときにだけ、「私」とモレルは別人として分離して読者の前にあらわれ、共同作業として『モレルの発明』をつくり出す。

 そしてそのうえで、もっと台無しになるようなことを考えれば、そもそもが断章形式で書かれたこの文章の集まりを、統一された手記、一個の作品として読んでしまって本当にいいのかどうかという点も、小説の側では保証してくれないのである。
(小説のなかには何ヶ所か「刊行者からの註」があり、手記の本文に突っ込みを入れている。これは、「手記の信憑性をあげつらう身ぶりによって、もっともらしさを偽装する」巧妙な罠のように見えて、実のところ、「たんに嘘臭くしてしまう」だめな細工であるようにも読める。どちらの意図で突っ込んでいるのか、よく見れば見るほど判断がつかない。二重の作為を感じてしまった瞬間から、片方に決めることはできなくなる)

 だとすると、この手記を手記として成立させているのは、あちらこちらに顔を出す信じがたさ、大小さまざまの疑わしさを乗り越えて、これを手記として読んでいる、この私なのだ。当たり前だが、これは一周まわって戻ってきた当たり前のはずである。
『モレルの発明』をつくり出す作者として、「私」、モレル、のほかに、この本を読んでいる私、も加えてしまっていいような気がしてくる。そうなると、「私」がモレルかもしれないように、私もモレルだったのだろうか。繰り返される7日間という虚構のなかに「私」が入っていったように、私も『モレルの発明』という虚構に加わった。そんな自覚は確かにある。
 妄想だ。しかし、妄想だろうか。これだけ長々と感想を書き続けてきたあとだから、という理由ではなしに、読みすすめる過程がこれだけ面白い小説だから、という理由でもって、そんな気持になってみる自由も、『モレルの発明』は与えてくれるように思われるのだった。楽しい小説だった。

《孤独な人間は、機械をつくったり、情景を定着させたりすることはできないものだ。ただ孤独という不幸を知らぬ人びとのために、不充分ながらもそれら機械や情景を文章に書いたり、描いたりするだけである。》p136

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