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2008/12/05

ビオイ=カサーレス『モレルの発明』 [16]



 小説は最後まで読んだ。それでは、『モレルの発明』はメタフィクションの傑作ということでよろしいか。
 いや、そんな言いかたではぜんぜん足りないと思うので、ここまで書いてきたのである。

 視点をひとつ上にあげて、“『モレルの発明』という小説じたいが、機械で記録された映像と同様、読むものに向かって永遠に反復し続ける記録となっている…… 最初から読み直すたびに記録の再生がはじまる……”とするような読みかたは(前回の終わりに私が書いたんだけど)、おそらく、この小説をまとめるための読みかたである。
 だけど私(たち)は、小説をまとめようとしながら読んでいるのではないと思う。変な記述から考えを膨らませたり、ああでもないこうでもないと推測したり、あきらかに別のことを連想したりして、読んでいる最中の小説は、まとまるどころがぐずぐずにかたちが崩れている。枠が壊れて内容物がこぼれだし、そのくせ、あちらこちらがびちびちに充実しているような。
 読み終えてからだって、小説を小さくまとめることなしには「視点をひとつ上にあげる」なんて真似はできない。「あげたつもりになる」くらいがせいぜいだと思う。そして、まとめないといけない理由などないんだから、ぐずぐずでごちゃごちゃのものを、ぐずぐずでごちゃごちゃなもののままにしておくのも「あり」だと思う。まとめる能力が足りないんじゃないのか? それもたしかにそうではある。

 読んでいる最中に考えたこと、読み返しながら思いついたこと、ぜんぶを書けるわけはないが、もう少しだけ続ける。私がここまで書いてきたこの小説のあらすじは、ぜんぶ嘘かもしれない、という話だ。

『モレルの発明』は一人称の手記である。だから、書かれていることがどこまで信用できるかは判断不能である……と書いてみて、何も自分だって、そこまでナイーブに読んではいないと思い直した。
 手記のすべての部分を「嘘かもしれない」と疑いながら読むことはできない。「嘘かもしれないが、しかし一応信じておこう」という留保を重ねてページをめくるものである。その結果、ひとつひとつの記述には疑いを差しはさめても、小説全体としては、事実として受け取るべきものごとが読者のなかにある程度(もしかすると相当な量)出来あがってしまう。これは一般論だと思う。
 しかし、どうにもマッチポンプな書きかたになって自分でも嫌になるが、こと『モレルの発明』に対しては、「この手記は嘘じゃないのか」とひとこと言っておかずにはいられない、むずむずした感じをおぼえる。見事に完結した一個の世界を作りあげているいっぽうで、そのような可能性もカットされず無造作に残されているのをスルーしたくない、とでも言うか。

 そもそもの発端、「私」がこの島に来ることになったのは、無実の罪に問われて文明社会から逃げ出したからだった。追っ手が来るかも、というおそれは冒頭から何度も書かれている。
 それなのに、その罪の具体的な内容はいっさい明かされない。一般的には罪であり、ただし「私」の考えでは罪ではないはずの罪、であるような書きかたがされていたがよくわからない。
 これは、「過去のことはもうどうでもよくて、島に来てからの現在のことだけが大事なのだ、なぜなら、この現在こそがいつまでも反復される“永遠”になるのだから」――ということなのだろうか。それでもいいが、考えようはほかにもあると思う。
 そのために、モレルの機械と「私」を並べてみたい。


→[17] [18]


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