趣味は引用
ビオイ=カサーレス『モレルの発明』 [15]


《われわれが、時間や空間を越えたものについて何も理解することができないという事実は、おそらくはわれわれの人生が、この機械のあたえてくれる死後の生と、大して変らないということを示唆するであろう。》p139

 自分が不死になるには、自分が消えないといけない。このひっくり返った条件を要請するのは、モレルの意図ではない。モレルが、被写体が死ぬように機械を作ったのではない。被写体を殺すはたらきは、彼の意図を越えた、機械の原理である。
(登場人物の意図だったら小説のなかにあるが、機械の原理は小説を越えている。小説の外から小説を支配している。だから登場人物は死ぬしかない)

 ここまで来ると、この小説の終わりはきっとああなるだろう、という気がしてくる。そして実際、そうなるのである。予想が当たった、というのではなくて、小説最後の15ページくらいは、まちがいなく「読者に当てさせるように」書いてある。それでも「やっぱり」というカタルシスはある。

 自分が一目ぼれしたフォスティーヌは、存在の次元を別にする映像である。それがわかった「私」は、目の前の映像のモデルになった、本物のフォスティーヌを捜しにいけないものかと考える。しかし「私」も勘付いているのだ、モレルの機械で撮影されたモデルはすでに死んでいることに。
 ではどうすれば、自分は彼女といっしょになれるのか。
 
 そもそもモレルは、どうしてこんな機械で一同を撮影しようとした(永遠の記録にしようとした)のだろうか。何度か匂わされているのは、やはり彼もフォスティーヌを好きになり、彼女の愛が得られそうにないので、永久に共にいられるように、自分ともども不死の映像にしてしまうよう望んだ、ということである。本当のところはよくわからない(だいたい、これらを記述する「私」がこのへんの状況を信じたがらず、過剰にバイアスをかけてくる)。
 しかし、「私」の次の行動ははっきりしていた。
《私の下した解決の真にすぐれている点は、死によって、フォスティーヌを永遠に眺めるための必要条件と同時に、その保証までも獲得できるという点にある。》p171

 フォスティーヌにとって「私」は存在しない。どうあってもフォスティーヌを振り向かせることができないのなら、自分も映像のなかに入ってしまおうと「私」は決意する。
 リピート再生されるフォスティーヌの一挙手一投足を頭に入れて、まるで自分が彼女と一緒に行動しているかのように演技をし、その様子をカメラで撮影する。記録された自分の映像を、フォスティーヌはじめ「連中」一同の姿が再生されている島の上に映写していけば、あたかも、「私」は「連中」のなかに入り交じり、フォスティーヌと親しく付き合っているように見えるだろう――生身の「私」が死んで消えたあとでこの島に来る、事情を知らない者の目からは。
「私」の解釈するところでは、いまの機械では、映像に意識は発生しないはず([13])。映像になった自分には意識がない。言ってみれば「私」にとっては、最高にうまくいったとしても、自分の不死は第三者に託されるのである。
 小説のなかに特殊な機械が設定されたことで、登場人物はこんな種類の希望まで持つことができる。ちょっと感動する。撮影を終えた「私」の、こんな述懐を見れば、なおさら感動は深くなる。
モレルの映像をどうしたら消せるだろうかと思い悩んだ。そんなことは考えるだけ無駄だとわかっている。しかしこれを書いていると、そうした悩ましい願望にとらわれてしまう。あれらの映像同士(とりわけモレルとフォスティーヌの映像)が切っても切れぬ仲にあることは私を苛立たせた。しかしいまはちがう、私も彼らの世界に入り込んでしまったからだ。》pp172-3、太字は引用者

 この期におよんで、「何を言ってるんだお前は」と突っ込める余裕があること。これはほんとうにすばらしいと思う。

 ともあれ、このようにして『モレルの発明』は、さっきまで状況を語っていた語り手の「私」自身も含めてひとつの完結した“作品”となり、世界を閉じたところで終わる。本を最初のページから読み直せば、またまったく同じ場面からはじまり、同じ展開をたどって、同じ結末を迎える。
 そう考えると、まったく同じ7日間を繰り返し反復し続ける「連中」を見ておどろいていた小説のなかの「私」と同じおどろきを、小説の外にいる私が体験している気までする。その瞬間、自分も小説のなかに取り込まれたような、逆に小説が世界大に拡大したような感覚が生まれる。一瞬だけ。
 一瞬だけど、これはすごい一瞬だと思う。なぜならこの瞬間、『モレルの発明』という小説のなかに書いてあることが、そのまま『モレルの発明』という本になるのだから。
 
 それくらい素直に受け取ったあとでなら、最後に「私」の期待する第三者――「私」とフォスティーヌが恋人同士だと誤解する観客――というのを、「それはおれのことだったんだ」と捉えておきたくなるが、じつのところ、読んでいる私は、手記を書いている「私」が行った映像の捏造をつぶさに見てしまっている。
 作品(フィクション)の生成過程をリアルタイムで(=ページをめくりながら)追ってしまった私は、「私」が望むような、『モレルの発明』の純粋な観客にはなれない。しかし『モレルの発明』には、そのように不完全な観客しかありえない…… そんな自分を、私は「私」のために申し訳ないとさえ思う。


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モレルの発明 第2版 (フィクションの楽しみ)モレルの発明 第2版 (フィクションの楽しみ)
(2008/10)
アドルフォ・ビオイ・カサーレス

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