2008/11/28

ビオイ=カサーレス『モレルの発明』 [12]



 さて、そもそもモレルの機械は、地下室に無防備に置かれていたのではなかった。それは小説のずっと前に書いてあった。

 島に渡り、この建物(「博物館」)に住みはじめた「私」は、食料が隠されていないかと地下室へ降りたとき、あるきっかけから、壁の奥にもうひとつ部屋が隠されているのに気が付いてその壁に穴を開け、向こう側に入り込んだ。そこにあったのが(食べ物ではなく)給水ポンプと発電機だったのである。
《壁面と天井と床は水色の陶製で、何もかも、漂う空気さえも(この部屋には、上の方にある、木の枝のあいだに隠れている明りとり以外に陽の光のさし込む場所はなかった)滝の泡のような、深い透明な青さに浸されていた。
 モーターについてはまるで知識のない私だが、それを始動させるのに手間はかからなかった。雨水が尽きるとポンプを動かす。機械が単純で、どこも故障していなかったということも、私自身がその機械を動かせたということも、思えば驚くことばかりだった。》p30

 だから、停まっていた機械を作動させ、「連中」を出現させたのは、じつは「私」自身だった。自覚のないマッチポンプである(とはいえ、永遠に同じ映像を繰り返し再生させるこの機械こそマッチポンプなのだが)。

 話を100ページあとに戻すと、ふたたび「私」は地下室の奥、自分で開けた壁の穴をくぐり抜け、機械のある空間に入りこんだ。「私」の前で、停止していたモーターが動き出す。
《私が開けた壁の穴に背を向け、腰を下ろして待った(青く滑らかな陶器の壁が、この穴で途切れているのを見ると、心が痛んだ)。
 こうしてしばらくのあいだ放心したかのように、じっとしていた(いま考えると信じられないようなことだが)。やがて、緑色の機械が作動し始めた。》p148

 そしてどうなるかというと、こうなる。
《さて私は帰ろうとして、うつむき加減に歩いた。壁に目をやったとき、方向を見失ったと感じた。自分の開けた穴を捜した。しかし穴はなかった。
 奇妙な目の錯覚にちがいないと思い、それがつづくかどうか、一歩脇に退いてみた。それから、まるで盲人のように腕を伸ばし壁のあちらこちらを触ってみた。私が壁に穴を開けたときに落ちた陶製タイルと煉瓦のかけらを床から拾いあげた。長いこと壁のその部分を触っていたが、結局は壁が元どおりになっていることを認めるしかなかった。》p149

 何が起きているのか? 「これはもしかして……!」と、読んでいる私には思い当たる。その推測が正しいことを、語っている「私」のほうで保証してくれるまで数ページかかる。このタイムラグのあいだにおぼえる興奮というのは、まさしく読んでいる最中にしかない、読書の醍醐味だと思う。
「私」は、最初に壁の穴を開けたときに使った鉄の棒で、“なぜか穴の塞がってしまった壁”をたたく。
《何度もたたいた。絶望感がつのるばかりだった。この陶製タイルの壁面は内側からでは壊すことができないのだ。どんなに強く、へとへとになるほどたたいても、堅い壁に響き渡るだけで表面にひびさえ入らない。青い七宝のかけらがほんのわずか飛び散るようなこともないのである。》p150

《私はまた、たたき始めた。壁のかけらが飛び散ることもあったが、はっきりしたものであれ微かなものであれ、とにかく凹みらしいものの出来ることはまったくなかった。私の視覚では捉えぬほど迅速に、壁は元どおりになり、私がここに入るために穴を開けた場所がそうなっていたように、すごい堅牢さを取り戻してしまうのだった。》p151

 何が起きているのか? 戸惑う「私」を描いた4ページ弱の最後では、「私」の語りのうしろに、一瞬だけ作者の態度が透けて見えるような気がする。「もうお気付きでしょうが」とでも言わんばかりに、「私」の口を借りて真相が明かされるのだ。
《私は声に出してこう言った、あるいは、はっきりと認識した――ここからは出られないだろう。私は魔法をかけられた場所にいるのだ。そう口にしたとき、私は急に自分が調子に乗って演技をやりすぎたペテン師のように思われて恥しくなった。そして、私がすべてを理解したのはそのときだった。
 この壁は、――フォスティーヌ、モレル、水槽の魚、ふたつの太陽の一方、ふたつの月の一方、そしてベリドールの本と同様に――機械が映し出したものなのだ。》p152

 まえに、太陽がふたつになっている場面におどろいた。あれは、「実物の完璧な複製を作ってしまう」というモレルの機械の単純明快な機能を、無制限に拡大適用させたところに出てくる異常な事例だった。
 今度も同じである。そして今度は、読んでいる私は(太陽の時とはちがって)もう機械の機能を知っていたのに、こんなことが起きると、やはりおどろくのである。「そういう使いかたまでしちゃうのか」、かつ、「当然、そう使うはずだよな」と。
《この映像の壁は職人たちがつくった壁と重なっている(それは機械が撮影し、そして同じ壁の上に映しだされた壁そのものなのだ)。最初に壁を壊した、あるいは取り除いた場所にも、映像の壁が残っている。とにかくこれは映像なのだから、いかなる力をもってしても、穴を開けたり取り除いたりすることはできない(モーターが働いているかぎりは)。
 最初の壁をすっかり取り壊してしまえば、モーターが停まったとき、機械の置いてあるこの部屋はすっかり開け放たれた状態になっているだろう。それはもう部屋というようなものではなく、隣の部屋の一角と化しているだろう。そして、モーターが動き出すと、ふたたびあの通り抜けできぬ壁が出現するということになるのだ。
 モレルは、このように二重の壁で保護することによって、自分の不死を守りつづけるこの機械を、だれの手も届かぬよう隔離することができると考えたにちがいない。p152、太字は引用者

 まったく不意を衝かれた。衝かれたあとで「やっぱり」と思う種類の衝かれかただった。
 おそらくそのせいで、私は上の引用部で太字にした部分よりだいぶ前にある、「とにかくこれは映像なのだから、いかなる力をもってしても、穴を開けたり取り除いたりすることはできない」という一文を読み飛ばしそうになる。なんという強引な進めかただろう。しかしその強引さには、それでいいからそのまま進んでくれ、と思わせる魅力がある。この場面、この流れで、この部分に置かれたこの無理やりな説明には、確固としたリアリティができてしまっているのだ(それこそ、「私」を囲む決して壊れない壁のように)。
 
 これほど用心深かったモレルの唯一の誤算は、機械の動力である潮の干満の調査が不充分で、永久に動き続けると思っていた発電機がたまに停まってしまうことだった。いまではもう順調に動き出してしまったモーターを停止させるにはどうすればいいかを必死で考えながら、「私」は機械のそばでこの手記を書いている――ということも抜かりなく記されている以下の引用部の几帳面さに私は笑ったが、爆発的な喚起力を持っているのはその次、最後の1行である。
《モレルの不死は、このモーターの作動に依存している。モーターは非常に頑丈に出来ていると推測して間違いあるまい。したがって、鉄棒でぶっ壊してやりたいという衝動は、抑えたほうがよさそうだ。ただ、疲れ果て、残りの空気を浪費してしまうだけだろう。自制するために、書くことにしよう。
 それにしても、もしモレルがモーターまでも映像化することを考えていたとしたら……。pp155-6、太字は引用者


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モレルの発明 第2版 (フィクションの楽しみ)モレルの発明 第2版 (フィクションの楽しみ)
(2008/10)
アドルフォ・ビオイ・カサーレス

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