2008/11/27

ビオイ=カサーレス『モレルの発明』 [11]


《孤独な人間は、機械をつくったり、情景を定着させたりすることはできないものだ。ただ孤独という不幸を知らぬ人びとのために、不充分ながらもそれら機械や情景を文章に書いたり、描いたりするだけである。》p136

 モレルの不死論の要は、「完璧な模擬像は、完璧なので、魂・意識を持つ」ということだった。だから、そんな模擬像ができれば、実物の不死が約束される。ここに必要な条件として、[8]で書いたのはこういうことだった。
 完全なコピーの完成をもって、オリジナルが不死を達成したとするためには、オリジナルは消えないといけない。
 小説のこれから先の展開が何となく見えてきたような気がする。しかしまだまだ考えられることがある。

 たとえば、モレルの機械の仕組みは、「こういうものです」と与えられる、一種の“原理”だ。その機械からはじまる不死のプロセスも、まずこうなるから → 次にこうなる、と矢印で示される“原理”である。そして、そこに組み込まれている前提、上で太字にしたことだって“原理”なのは同じである。
 しかし、小説のなかで“原理”というのは、それだけでは示されない。一定の期間の現実を記録・保存して再現する機械、という原理は、このような描写を通して示される。
《彼らの現れた次の日にふたつの太陽とふたつの月が見えたのである。[…] 第二の太陽――おそらくは本物の太陽の映像だろう――のほうがずっと強烈であることを確認した。昨日と一昨日とのあいだに、気温がものすごく上昇したように思う。まるで新しい太陽が春に酷暑をもたらしたかのようだ。夜はすばらしく明るかった。白夜のような光線が大気のなかに反射していた。》pp85-6

 ここ、もう3回目の引用になる。
 モレルの機械の仕組みをまだ知らず、どうしてこんなことが起きているのかわからなかった初読の際にぶつかったときからこの部分にはしびれたし、仕組みを知ってから読み直しても、その印象は減じない。それはこの描写が、「機械の原理の具体例」にとどまらない強度を持っているということだろう。ここだけで自立してしまうくらい生々しい(描かれているのは直射日光なんだけど)、と言っていいと思う。
(「第二の太陽」のほうがずっと強烈、というのは、ここで再現されている太陽が記録された時期は、「私」が手記を書いているいま現在よりも夏に近かったということなんだろうな――などと改めて考えてしまう)
 だからこの部分の面白さは、じつは原理による説明を必要としない。ここにあとから原理が補完され、「なんという発想だったんだ」ということになるのだが、そういった説明が特になく、べつにここだけでもよかったのだと私は本気で思う。
 
『モレルの発明』の面白さを語るとき、後半で明らかにされる発明(原理)が面白いのはもちろんだが、その原理によって引き起こされる出来事(その原理によって引き起こされていたと事後的にわかる出来事)の描写が、それだけでも充分すぎるくらい面白い、ということも強く言っておきたい。引用ばかりなのはそのためでもある。
 そして、いま書いたことを逆方向から証明するものとして、次にまた奇怪な出来事が起こる。つまり、この小説のなかを無茶苦茶なものにしている、モレルの発明という原理が明されたあとで描かれるにもかかわらず、「それならこういうことだって起こるだろう」というこちらの予想を軽々と越えてしまう、無茶なシーンが出てくるのである。モレルの演説を読んで、「これでもう、ネタは割れた」と思ってしまった自分が小さく見える。

 まず、連中の正体を知った「私」からは、かつてはあれほど感じていたおそれが消えている。ここの変化も面白い。
《どうにか、映像に苛立ちや嫌悪を感じなくなった。もうそれに悩まされることはない。いまでは増水を怖れる必要もない、博物館で快適に暮らしている。よく眠り、たっぷりと休息を取って、おかげで、かつて私を追跡する連中を巧みにはぐらかしてこの島に到着したころの落着きをふたたび取り戻した。》p134

《別に動揺もせず、単なる物体としてのフォスティーヌを眺めることに慣れつつある。好奇心から、この二十日あまり、彼女をつけ回している。面倒なことはほとんどないが、それでも、たとえばドアが――鍵がかかっていなくても――開かなかったりする(撮影されたときにドアが閉まっていれば、映写されたときもそうなっていなければならないからだ)。[…]
 部屋に引込むときフォスティーヌはドアを閉める。私がドアに触れずに部屋に入ることができるのは、ただただドーラとアレックがフォスティーヌと一緒に部屋に入ってゆくときだけであろう。しばらくすると二人は部屋から急いで出てくる。[…]
 次の機会には恐怖を克服して、フォスティーヌ、ドーラ、アレックと一緒に部屋に入ってみよう。
 そうやってなかに入ったら、幾夜もフォスティーヌのベッドの横の床にござを敷いて過ごすのだ、そして、そうした添寝がわれわれの習いとなるのだとはつゆ知らず、安らかに眠る彼女を眺めながら、私は感動に浸るだろう。》pp134-5

 同じ人間ではないことがわかった「連中」の立ち回る建物のなかで、安心して暮らすようになった「私」。彼の発揮する好奇心は変態的だろうか、健全だろうか。私は後者だと思う。それはともかく、あるとき、モレルの機械が動きを停める。「連中」は、というかフォスティーヌは、消えてしまう。
 とはいえこの機械は、潮さえ満ちればポンプやシリンダーが連動して発電が再開され、動き始めるのだった。それを知っている「私」は、「機械の仕組みを解明しようと考えて、地下室に赴いた」。


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モレルの発明 第2版 (フィクションの楽しみ)モレルの発明 第2版 (フィクションの楽しみ)
(2008/10)
アドルフォ・ビオイ・カサーレス

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