趣味は引用
ビオイ=カサーレス『モレルの発明』 [10]

《私は黄色い紙片を読み続けた。》p131

 モレルは、自分の発明の先に、結果として不死の実現を見ていた。そこで肝心なのは、“完璧な複製”だった。[8]で書いた、このフローである。

(1)完璧な模擬像をつくる
(2)完璧なので意識が宿る
(3)何度でも再生できるから、永遠に再生を繰り返せる
(4)事実上の不死である

 モレルではない「私」のほうは、“現出”に希望を見出す。
《私は、もはや生きていない人びとについて考えてみた、――いつの日か、波動を漁[すなど]りする者たちが、彼らをふたたび地上に呼び集めることであろう。この私自身でさえ、何か出来るのではないかという幻想を抱いた。もしかしたら死者たちの存在を再構成するシステムを発明できるのではないか。たぶん、モレルの機械に、生きている被写体からの(疑いもなく、より強い)波動を受信するのを妨げるような装置を取りつけることで、それが可能となるだろう。》p132

「私」の解釈するところだと、生きている者は、姿や音声、感触という様々な波動を発しており、それを保存して再現するのがモレルの機械である。
 ここで、死者たちの姿や音声、感触も「何らかのありようで、どこかにありつづけている(p132)とするならば、機械はそちらの波動も受信して、死者を目の前に現出させる(=よみがえらせる)ことができるはずだ――これはこれで、不死の話なのだった。
《不死性は、あらゆる魂のなかに――すでに塵に返ってしまった人間のなかにも、現に生きている人間のなかにも――芽生えることが可能となるだろう。しかし、何ということだ! そうなったら、もっとも最近に死んだ者たちまでもが、より古い死者たちと同じように、亡骸の森さながら、われわれの眼前にびっしりと姿を表わすだろう。》p132

 モレルのほかにも、ここに無茶を言っている人がいる。かくして、モレルの発明を真ん中に置き、モレルと「私」によるふたつの不死論が渦を巻く、『モレルの発明』はそういうかたちをとってきた。

 ……と勢いで書いてみたが、改行のあいだに「言い過ぎた」と考え直した。というのは、モレルの不死論に較べて、「私」の不死論はいまひとつ弱いというか、浮ついているのである。それは前提が前提の役割を果たしていないからだ。
 死者たちの姿や音声、感触が、不滅のものとしてどこかに残り続けているならば、モレルの機械で不死が実現する。これでは、万物不滅という土台があれば不滅が実現する、と言っているわけだから、「私」当人以外にとっては堂々めぐりでしかない。「私」の考える(しかも、以前から考えていたという)不死の試みは、一瞬の熱にすぎないと思う。
 そして不可解なことに、「私」の不死論がぱっと燃えあがって消えたあとでは、モレルの不死論が今までより確たるものに見えてくるのである。もちろん納得なんかしないつもりでいながら、あちらには説得力があった、と考えている自分がいる。騙されたような気分だが、実際、騙されたのである。
 
 するとこう言えるのだろうか。『モレルの発明』のなかで、その全体を物語る「私」は、結局のところ、モレルの不死論に奉仕している、と。
 であれば、モレルという人物は、モレルだけでなく、「私」を含んでいると考えてもいいのではないか。
 いっぽう、この小説が一人称の手記であるという点にあくまでこだわる場合、モレルという人物は「私」を通してしか見えてこない。だからモレルの不死論を(「私」のものとは別のかたちに)成形しているのは「私」である。
 であれば、モレルという人物は、モレルだけでなく、「私」を含んでいると考えてもいいのではないか。


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モレルの発明 第2版 (フィクションの楽しみ)モレルの発明 第2版 (フィクションの楽しみ)
(2008/10)
アドルフォ・ビオイ・カサーレス

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