2008/11/25

ビオイ=カサーレス『モレルの発明』 [9]



 前回の最後に書いたふたつの「先走り」を読み直してみて、気になった。私は本当にああいうことを、最初に読んだときに、あの時点で(モレルの演説が済んだ125ページあたりで)思いついていたんだろうか。
 ふたつとも、[1]を書きはじめる前から、ぜひ書こうと思っていたことではある。だけど実際に思いついたのは、あのあたりを読んでいたときではなくて、小説を読み終え、あれこれ考え直してからだったのかもしれない。いまではもう知りようがない。
 そんなことを気にするのもどうかしている、と思わなくはない。どうせなら、いろいろ考え尽くしてからすっかりまとめて感想を書くほうがずっと読みやすくなるだろうし、なにより、あらすじでこんなに長くならない。

 でも私は、小説を読んでいる最中にどんなふうに気持が動くのかを記録しておけないものかと考えて、結局、あたまから順に書きはじめたのだった。

 いつもそんな書きかたができるわけではないけれども(工夫がないせいで面倒すぎる)、これについてはそうやって書いてみたい、と思うくらいに『モレルの発明』を読み進めるのは面白かった。だから、「自分はこんなふうに読んだ」というメモをつくっておこうとしたのである。やはり、すでに読み終えているのに、読んでいる最中のことを思い出しながら書く、というのが無理なのか。過程にこだわるなら、読みながら書くべきだった。
(だいたい、初読の際のリアルタイム感想だけが“本当の”感想、なんて考えるのもおかしいわけだし、もっと目的にかなう書きかたはきっとある)

 だけど、これもまた変な言い方だが、こういうときに「何かを取り逃した」と思い知るからこそ、逆に、「小説というのは、読んでいる時間の中にしかない」みたいな保坂和志や高橋源一郎の極論が、私にもちょっとはわかる気がするのである。誤解かもしれない。

『モレルの発明』に戻る。
生命ある再生物をつくるためには、生きている被写体から送り出されるものが必要です。私は生命そのものをつくるのではない。
 レコードに潜在的にひそんでいるもの、私がスイッチを入れ、蓄音機が作動すれば現れ出るもの、それを生命体と呼ぶことはできないでしょうか?[…] いや、皆さんだってこれまでに何度となく、ひとの運命についてみずから問いかけてきたのではないか、昔から変わらぬ問いを繰り返してきたのではないですか。――われわれはどこへ行くのか? われわれの生はいったいどこに埋もれているのか?p120

 モレルはこんなことまで言っていたのだが、このあと、聞いていた仲間と仲違いがあって(あとで触れると思う)演説は途中で終わる。その演説原稿を盗み取り、博物館から低地に帰った「私」には、さすがにさまざまな心境の変化が訪れる。
《私は、あの連中と、飽くことなく繰り返される彼らの活動に嫌悪感を、いやほとんど吐き気を覚えた。彼らはしばしば丘の端に姿をあらわした。人工の幽霊の出没する島に住む、これ以上に耐えがたい悪夢があるだろうか。しかも、そうした像のひとりを愛してしまうなどというのは、幽霊を愛するよりまだ悪い。(だがもしかしたら、われわれは愛する人が幽霊として存在することを、いつも心のうちで願っていたのではないだろうか。)》p127

「私」は演説をどのように受け取ったのか。上の引用を見る限り、くだんの発明をモレルの戯れ言としてではなく、事実として認めているようである。それはそうだ。あれだけ無茶な体験をして、実在するのにこの場にいない「連中」から脅かされ続けてきたのだから。そのうえで、引用最後のカッコ書きはいよいよ面白い。何の気なしに思いつきをぼろんとさらけ出してしまったような格好でこんなことが書いてある、というところがこの小説の魅力だと何度でも思う。
 しかし、モレルの言うことをすべてそのまま呑み込んだわけではない。「私」はモレルの演説原稿を何度も読み返して、彼の言っていることをいくらか整備する。つまり、語り手の「私」がモレルと一緒になってこの小説『モレルの発明』の言っていることを編み直すわけだが、こう太字にしてみると何かいわくありげながら、一人称小説なんだからこれはまったく普通のことだった。
 けれども、「私」の進めた思索は普通ではない。
「私」の考えでは、電話やテレビは、この場にいないもの(不在)を、この場に現出させるだけである。それに対して、写真・映画・蓄音機は、この場にいないもの(不在)を現出させるだけでなく、保持しておくことができる。ここにちがいがあり、真の意味での記録とは後者であるが、どちらにも共通しているのは現出の機能だ、ということになる。なんだか逆戻りしているところが気になるが(分類した上でもう一度まとめる、という順序が謎)、先を読めばその謎は解け、そのせいでますます変なことになる。
《したがって、不在を阻むための機械とは、例外なく現出の手段なのである(写真やレコードを所有する以前に、まず撮影し録音しなければならない)。
 同様にして、いかなる不在も、最終的には空間的なものに他ならぬと考えることも不可能ではない……。もはやこの世に生きていない人間の姿、感触、音声も、おそらくは、何らかのありようで、どこかにアリ続けているはずなのだから(万物不滅……)。
 このとき、私の研究課題である希望がひそかに息を吹き返し、私は、博物館の地下室に行って、あの装置を調べてみなければと思う。》pp131-2

「私」は、モレルの敷いたレールを利用して、また別の方向へ進んでいくようなのである。


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