2008/11/23

ビオイ=カサーレス『モレルの発明』 [8]


生命ある再生物をつくるためには、生きている被写体から送り出されるものが必要です。私は生命そのものをつくるのではない。
 レコードに潜在的にひそんでいるもの、私がスイッチを入れ、蓄音機が作動すれば現れ出るもの、それを生命体と呼ぶことはできないでしょうか?p120

 モレルは自分の発明を不死の発明だという。

(1)完璧な模擬像をつくる
(2)完璧なので意識が宿る
(3)何度でも再生できるから、永遠に再生を繰り返せる
(4)事実上の不死である

 ここの流れは彼にとっては一直線だったのだけれども、待て待て、と言いたくなるところがいくつもある。
 たとえば上の(2)。これまで「私」がさんざん身をもって体験してきたように、生身の人間は模擬像と関わりを持つことができない。モレルが言うには、触れば触れるし、匂いや重さを感じることもできるらしいが、写真にうつった人物や映画の登場人物と話すことができないのと同じで、どれだけ実物に似ていても、模擬像と意思の疎通を行うことはできない。彼らはただ、記録された一定のシークエンスを繰り返すだけである。
 だったらどうして、彼らに「意識がある」ことになるのか。「魂がある」とわかるのか。その根拠は何も語られない。「こんなに似てるんだから」という勢いだけでモレルは飛躍するのである。
《もしわれわれが、われわれの周囲の人間に対し、意識とか、人間をものから区別する一切の所有を認めるとすれば、私の装置がつくりだした人間たちにはそれがないと断定することができますでしょうか。いかなる有効かつ精緻を極めた論理をもってしても、それは不可能なはずです。》p119

 モレルはこう言っていたけれども、むしろ逆だと思う。彼の発明した模擬像は、なんというか、見事なくらいチューリングテストの真逆になっている気がする。そのほかの部分ではまったく生身の人間と同じなのに、意識だけがない、そんな存在なんじゃないか。
 それなのにモレルは「意識がある」と断言する。その断言だけで充分に面白いのだが、じつは断言のなかでもう1回飛躍しており、そこがますます面白い。
 さっき書いたものをもう一度貼り付けると、

(1)完璧な模擬像をつくる
(2)完璧なので魂・意識が宿る
(3)何度でも再生できるから、永遠に再生を繰り返せる
(4)事実上の不死である

 模擬像が完璧なら意識が生まれる、とするモレルの考えが正しいとしても、(1)(2)からすれば、できあがるのは「完璧な複製」のはずである。しかしモレルは、「実物があって、その複製ができる」とは考えていないようなのだ。絶対それが自然な筋道だろうに、そちらには向かわず、別の方向に飛ぶ。
 実物の、ある期間の行動を永遠に反復する複製が完成すれば、実物が不死になったことになる――これがモレルの考えである。自分(オリジナル)の複製(コピー)ができれば、自分は不死になるという結論は、明らかに歪んでいる。このように考え切るためには、“複製が完成する”ほかに、もうひとつ不可欠な条件があるはずだ。それは、“実物が消える”ことではないか。

 ……すこし先走りすぎたので、別のことを書く。
 ある一定の期間の、まったく同じ言動を反復する。傍から見ていて、どれだけ好意を抱いたとしても、属している場所が別なのでこちらからは働きかけることができない。モレルの機械でつくられるそんな存在とは、映画や小説の登場人物みたいなものじゃないだろうか。たとえ「連中」が実生活の一部分を再現しているのだとしても、第三者からすれば、虚構を演じているのと変わりはない。「連中」と「私」の関係は、フィクションと受け手のモデル図のように見える。
 しかも、モレルのつくった作品(反復されるフィクション)の受け手である「私」は、一歩引いて眺めると、手記という設定をもつこの小説の書き手でもある。さっきまで受け手の位置にいた「私」を作り手の側にスライドさせると、受け手の位置に立つのは、小説『モレルの発明』を読んでいる、この私、ということになるのである。
 ……こちらも先走りすぎた気がする。「どう書いても先走る」んなら、つまり、佳境ということかもしれない。


→[9] [10] [11] [12] [13] [14] [15] [16] [17] [18]


モレルの発明 第2版 (フィクションの楽しみ)モレルの発明 第2版 (フィクションの楽しみ)
(2008/10)
アドルフォ・ビオイ・カサーレス

商品詳細を見る

コメント

非公開コメント