2008/11/22

ビオイ=カサーレス『モレルの発明』 [7]



《われわれには、ものごとは一定のやり方で展開してゆくものだとか、この世界には漠然とした整合性のようなものがあるはずだと期待する習慣がついている。ところがいまや、現実は私のまえで変容をとげ、非現実的な姿を現わした。ひとは眼覚めのとき、あるいは死ぬとき、夢のなかの恐怖やそれまでの人生で気にかけてきたこと、そしてまた、身につけた性癖から自分を解き放とうとして、すくなからず時間をかけるものだ。あの連中に恐怖を感じるという習慣を捨てることは、いまの私にとってはけっして容易ではない。》p108

(ネタバレ進行中)

“モレルの発明”が明らかになった時点から考えると、そこより前で、たいへんなことが起こっていたことがわかる。たとえば前回も引用した、こんなところ。
《彼らの現れた次の日にふたつの太陽とふたつの月が見えたのである。[…] 第二の太陽――おそらくは本物の太陽の映像だろう――のほうがずっと強烈であることを確認した。昨日と一昨日とのあいだに、気温がものすごく上昇したように思う。まるで新しい太陽が春に酷暑をもたらしたかのようだ。夜はすばらしく明るかった。白夜のような光線が大気のなかに反射していた。》pp85-6

 つまり、太陽や月までも、モレルの機械によって記録され、それが再生されているのだ。そのせいで、いまこの場にある本物の太陽にプラスして、再現された太陽(本物とまったく同じ)がもうひとつ、「私」の頭上に輝いている。あるいはまた、こんなところ。
《ホールを通りかかったとき、二週間前に私が持ちだしたベリドールの著書の幻が眼にはいった。緑色の大理石の同じ張り出し机、その机の上の同じ場所にある。ポケットをさぐってみた。本を取り出し、机の上のとくらべてみた。二冊の同じ本ではなく、同じ一冊の本が二重にあるのだった。二冊とも、PERSEという言葉を雲状にかこむ空色のインクはかすんで不明瞭になっているし、見返しの下の隅のところが斜めに破れている……。》p104

 この小説のなかで働いているシステムは、合理的に説明された。あるひと続きの現実を完全に記録して、再生する機械。これが影響を及ぼす範囲を無制限に拡大した結果、合理的なシステムによって、無茶苦茶な状態が生まれていたのである。
 このように、“説明がされた時点から、さかのぼっておどろく”ことのできる小説は面白い。つまりは謎ときの面白さ、ということになるのだろうが、『モレルの発明』は、この謎ときをもって終わりになるのではない(ページ数でいえば、これでだいたい半分を過ぎた程度だ)。モレルの演説より先は、「私」の目の前に記録された過去が再現され、現実が二重化するこの異常な空間を、ネタが割れた状態で、いわば内側から描いていくのである。
 しかしその前に、この時点で考えられることをもっといろいろ考えておきたい。そうしないともったいないからだ。

 この小説が一人称の手記という体裁を採っている以上、モレルによる機械の説明(つまり、語り手「私」と読者の私から見える、モレルたちについての説明)も、「私」の聞き書きというかたちで示される。説明を過不足のないものにするために、「私」はモレルの演説原稿まで盗み取ってきたことになっているのは前回も書いた。わざわざそんなエクスキューズまで設けないといけなくなるのが一人称に特有の面倒くささだということは、べつにこの小説を読む前からわかっている。
 しかし今や、その面倒くささ、煩瑣な手続きが目に見えることが面白くて仕方がない。こんなことをこうやって伝えようとしているのか、と。
 さっき「説明を過不足のないものにするために」、と書いたが、「私」によって記録されるモレルの説明は、あちらこちら過不足ばかりである。熱意ばかりが先行して、納得してもらうべきほかの仲間に、疑念や反感を生んでしまう。しかし実際にページの上にあるのは、その偏った演説だけなのだ。それを読むしかない。
(以下、引用を示す《 》のなかで、さらに太字の《 》でくくった言葉が、「私」がモレルの演説原稿から書き写したものである)
《口を閉ざしたモレルは、眼をぎょろつかせ、薄笑いを浮かべて、身をふるわせた。それから、熱のこもった調子で続けた。――
友情に甘えて私のやったこと、それは許可なしにみなさんを撮影したということです。もちろん、ありきたりの撮影ではない。私が最近発明した技術による撮影です。われわれはこの写真のなかで永遠に生きることになります。この七日間のわれわれの生活が完全に映しだされている情景を想像してみて下さい。われわれが登場しているのです。われわれの行動すべてが記録されたのです。
「何て恥知らずな!」黒い髭の出歯の男が叫んだ。
「まさか、冗談でしょう」ドーラが言った。
 フォスティーヌは笑いもしない。怒っている様子だった。
ここに到着したとき、皆さんに知らせることもできた、われわれは永遠に生きつづけるだろう、とね。しかし、もしそう申しあげていたら、われわれはたえず楽しそうにしていようという気になって、結局すべてを台無しにしてしまったかもしれない。時間をできるだけ有効に使おうという意識に縛られていなければ、どんな一週間であろうと、われわれがともに過ごす一週間は楽しいものになるだろう、そう考えたのです。そうではないでしょうか?
 そうしたわけで、私は皆さんに楽しみにあふれた永遠を差し上げたのです。pp110-1

われわれはこの写真のなかで永遠に生きることになります。」 そして、「私は皆さんに楽しみにあふれた永遠を差し上げたのです。
 モレルが望み、達成したとみずから言い切るのは、“永遠を手に入れること”なのである。どうしてそうなるのか。
 次の引用はとても長いが、私が前回からここまでかかって書いてきたことをモレルが自分の口で言っているだけに、どこも省略できない重要部分である。
実際のところ、ものの再現はそれ自体ものではあるが――たとえばある家の写真が別のものを表わすものであるように――、再現された動物や植物は、動物でもなければ植物でもない、私はそう思っていました。私のつくりだした人間の模擬像には、明らかに、(映画の登場人物と同じように)その人自身の意識は欠けているであろう、と私は確信していました。
 ところが思いがけぬ事態に出会いました。いろいろ苦労を重ねたのちのことですが、個々の機械の性能がうまく調和するように組合わせているうちに、私は再構成された人間そのものに遭遇したのです。しかもその人間は、映写機のスイッチを切れば姿を消すのですが、そのままにしておくと、撮影された過去の情景に対応する時間だけ生きていて、その時間が過ぎてしまうと、同じ情景が最初から繰り返される。まるで、終ればはじめに戻るレコードやフィルムのような感じなのです。その上、再構成された人間は、現に生きている人間とまったく区別ができないほどです(彼らは別の世界を――たまたまわれわれの世界と隣接してしまった別の世界を動きまわっているように見えるのです)。もしわれわれが、われわれの周囲の人間に対し、意識とか、人間をものから区別する一切の所有を認めるとすれば、私の装置がつくりだした人間たちにはそれがないと断定することができますでしょうか。いかなる有効かつ精緻を極めた論理をもってしても、それは不可能なはずです。
 さまざまの感覚を整合的に集めると、魂を出現させることができます。これは当然予期すべきことでした。視覚にとってマドレーヌがいる、聴覚にとってもマドレーヌがいる、味覚にとてもマドレーヌがいる、嗅覚にとってもマドレーヌがいる、触覚にとってもマドレーヌがいる。このすべてがそろったとき、そこにはマドレーヌそのひとがいるのです。》》pp118-9、太字は引用者

 徐々に助走をして、最後の段落で飛躍する。「さまざまの感覚を整合的に集めると、魂を出現させることができます。
 この機械でつくりだした模擬像は、自分の完璧な再構成であるために、そこには魂が(当然、自分の魂が)宿る。自分の魂を持った模擬像が永遠に映写されるのなら、すなわち、自分が永遠になるとモレルは言う。不死が実現するのである。
 この、“結果的に不死になる”という筋道には、「よくそんなことを思いついてくれたもんだよ、あまりに面白いので信じてあげたい」とモレルに賛成してついていきたくなる気持と、「いやいや、絶対まちがっている」と踏みとどまる気持の両方が生まれる。そして、読んでいる私を「これからどうなるんだ」と引っぱるのは、前者よりも後者の気持であるように思う。


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モレルの発明 第2版 (フィクションの楽しみ)モレルの発明 第2版 (フィクションの楽しみ)
(2008/10)
アドルフォ・ビオイ・カサーレス

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