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2008/11/21

ビオイ=カサーレス『モレルの発明』 [6]


《いまとなってみると、真の状況は、私がこれまでのページに書いてきたものとはちがうように思われる。私が経験している状況は、どうやら私が経験していると信じている状況とはちがうらしい。》p97

(今回こそ、ネタをバラす)

 この島に起きているのはどういう事態か。
 最初のほうからあからさまに怪しかったのは、[4]でも触れた発電機である。博物館の地下にあるこの機械は、海のほうにあるポンプとつながっており、潮の干満を利用して水力でモーターを動かし、発電する。
「連中」が一時的に消えてしまったとき、ちょうど発電機は停まっていた(海が凪だったため)。「私」が人力でモーターを起動させ、電気を復旧させて地下室を出ると、「連中」も復活していた。
 だからどう考えても、彼らは電気に関係があるのだ。
 では、その彼ら、「連中」じしんについてはどんなことが書かれていたか。
《彼らはほんの数年前に流行ったのと同じ服を着ている。それなりに魅力的ではあるが(私の見るところ)徹底した軽薄さの表われである。》pp20-1

 そしてまた、タイトルにもなっている「モレル」だが、これが誰なのかは、実はかなり前半で明らかにされていた。「私」が片思いに落ちてしまった美しい女、それがフォスティーヌ。どうやっても「私」に気付いてくれない彼女に言い寄っていた、若い男。そちらがモレルである。「私」は盗み聞きをしているうちに名前を知ったのだった。
 そのモレルは、ある日こんなことを言っている。
《「何と不幸なんだ、わかり合えないなんて。もう期限までわずかしかない。三日、それを過ぎると、もう全部どうでもよくなってしまう。」》pp61-2

 フォスティーヌとモレル、ふたり揃って「私」のことは無視するのだから「当てつけか」という嫉妬が生まれるのはもっともだが、それから一週間後、「私」は前回と同じ丘の上で、同じふたりの会話に反復をみて奇妙に思う。
《「いやそれとも、お互い理解し合えるかもしれない。もう期限までわずかしかない。三日。何と不幸なんだ、わかり合えないだなんて。」
 私の意識のなかでゆっくりと、しかし現実のなかでは精密に、フォスティーヌと髭の男の言葉と動きが一週間前のふたりの言葉と動きとに一致した。》p68

 ここに「むごたらしい永劫回帰」、というキツめの言葉が続く。
 さらにまた、こういう記述もあった。
《彼らの現れた次の日にふたつの太陽とふたつの月が見えたのである。[…] 第二の太陽――おそらくは本物の太陽の映像だろう――のほうがずっと強烈であることを確認した。昨日と一昨日とのあいだに、気温がものすごく上昇したように思う。まるで新しい太陽が春に酷暑をもたらしたかのようだ。夜はすばらしく明るかった。白夜のような光線が大気のなかに反射していた。》pp85-6

 言動の反復と、複数化した太陽・月。そこにどうやら、電気の力が関係しているらしい。
 そこまではわかる。これがどういうことなのか、何が起きているのか、正解は、ほかならぬモレル本人の口から明かされる。もちろん、モレルが「私」に向かって教えてくれるわけではない。ある夜、例によってたまたま博物館に紛れ込んでいた「私」が聞き耳を立てているそばで、モレルはフォスティーヌを含む「連中」の全員をテーブルに集め、長い演説をぶつのである。おまけに、彼が演説で読み上げた原稿までも「私」は手に入れ、持ち帰って手記に書き写すのである。
 そこから判明する事情をざっくりまとめると、こういうことだった――

 カメラ・映画は目に見えるものを記録(保存)する。蓄音機は耳に聞こえるものを記録(保存)する。これらの科学的手段によって、視覚的・聴覚的な不在は解消された。写真によって視覚像は再現されるし、レコードによって音声は再現されるのだから。
 発明家であるモレルは「論理的にさらに先へと進ん」だ。すなわち、人物でも動物でも物体でも何でも、対象のありようを、その視覚像も音声も匂いも触感も、すべて記録できる機械を開発したのである。
 記録した像は、やはり彼の機械を使って、そのままどこにでも映写できる。映写された像は、もとの対象と寸分たがわない実在感を持つ。というかこの機械は、対象を構成する要素のすべてを再構成するのだから、映写される像はそのまま実在なのである。よって“映写”は“対象の再現”になる。記録して、保存して、再現するこの機械一式が、モレルの発明だった。

 ということは、語り手「私」にとってはともかく、読んでいる私にはこのようなことがわかる。
 いつだかわからない過去に、モレルをはじめ、「連中」がこの島を訪れた。一週間、楽しく遊んで暮らすあいだじゅう、モレルはこっそり、自分たち全員を撮影していた。この七日間は、のちのち何度でも再現できる一種のフィルムに記録される(七日目の夜、モレルは全員を集めて「実は」と自分のしたことを明かす。その演説の様子も記録されている)。
 その後、この七日間を記録したフィルムは、博物館地下の発電機で動く映写機にセットされ、電力が通うと自動的に再現されるようになっていた。繰り返し、何度でも。
 何も知らないまま島に来て、偶然、発電機のモーターを回した「私」の前に現れた「連中」は、本物の人間ではなくて、機械によって記録され、映写されていた偽の像だった。しかし偽の像とは言っても、傍から見る限り、本物と何のちがいもないのである。こちらから一切、はたらきかけることができないという点を除いては。
 彼らに「私」が見えないのは、写真に写ったモデルに(あるいは、スクリーンに映った俳優に)こちらが見えないのと同じである。「私」が発電機を動かしたとき、機械の再生(=彼らの再現)がはじまった。「私」はリピート再生される彼らの姿に怯え、逃げ回っていたのだ。
 何度目だかわからない“七日目”の夜の再現に「私」はたまたま居合わせて、何度目だかわからないモレルの演説を聞いた。それがn回目の演説だったとすれば、翌日からはn+1回目の“一日目”が再生されはじめ、島には彼らがふたたび再現されていくのだろう。3Dホログラム、ただし実体のあるホログラム。それが彼らの正体だった。

 しかし混乱している「私」は、すんなり事情を飲み込めるわけではない。モレルの演説を書きつけた部分で「私」が何度か繰り返すのは、「モレルの偉そうな喋り方が気にくわない」みたいな不満なのである。


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