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2004/04/01

その15 ― ピンチョン Lot 49

The Crying of Lot 49 (Perennial Classics)

前回…] [目次


 Lot 49 の舞台は何年なのかという話の続き。

 1964年なのか1965年なのか、それとも1966年なのか?
 自分としては、計算から出てくる1966年であってほしいと思うが、この計算は数字が大づかみなので、答えがちがってくる余地もある(たとえば「1年前」が正確に12ヶ月前とは限らない)。それにLot 49 は、刊行の前年である1965年に一部が雑誌に掲載されたというから、舞台が1966年だと未来ということになって不自然かもしれない(それだって別に不自然ではない、という立場も当然ある)。
 以前読んだLot 49 論の中には、特に理由はあげないまま「1964年を舞台に」とはっきり書いているものもあったのでおどろいた。その著者はもしかしたらピンチョンと同世代かもしれず、見る人が見れば容易にそれとわかる根拠があったのかもしれない(だったら書いてほしいと切に思った)。

 結局、自分には年代ひとつについてさえ確かなことはわからない。

 ところで、作中でエディパの訪れたバロ展が、現実に開催された2回の展覧会(1962年と、1964年)のどちらかであると考えるような読み方がそもそも正しくない、という意見もあろうかと思う。小説という架空の世界で、架空の人物が架空のバロ展を訪れたものとして読めばいいじゃないか、と。
 そうすれば作中の年代はどうとでも辻褄が合わせられるだろうし、そもそも、そんなデータは明示されていないのだから、変に特定しようとすることで作品の姿が歪んでしまうとも言えば言えるだろう。

 しかし自分は、実際にあった出来事その他に全面的には立脚していないことが明らかな作品であっても、こちらの現実世界にいくらかでも接点があるのなら、それがハイヒールのかかと程度の小さな点であれ、その接点の限りにおいて小説というひとつの現実を小説の外というもうひとつの現実の地面に立たせ、もともとないのかもしれない整合性をあれこれ探してみる――もっといえば、整合性をつくってみる――読み方のほうが好きである。
 好きである、という以上の理由を説明するのは正直、手に余り、またぞろ他人の文章を引用するしかないような、その程度のヘタレな読者ではあるが、そういう読み方をする「べき」だ、とはいわないまでも、そんな読み方にはそんな読み方なりの意味があると考えている。

 そういった作業に向かない類の小説はたくさんあるだろうし、その向く・向かないと作品の面白さが別の話であるのはもちろんだが、デビュー以来ずっと凝りに凝った小説を書き続けてきたピンチョンの作品は、そんな詮索にじゅうぶん耐えるし、むしろ、執拗な詮索というこちらからの働きかけを待っているんじゃないかと思うのだ。

…続き

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