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2008/11/17

ビオイ=カサーレス『モレルの発明』 [2]



 語り手の「私」はどうやら、何かの罪を犯して逃げているらしい。知人のつてで、ひとり無人島に渡り、丘の上に残されている豪華な建物(「博物館」)に引きこもって暮らしていたのだが、島の生活が100日を数えた翌日、前触れもなく、たくさんの男女がにぎやかに上陸してきた。ほうほうの体で「私」は低地に身をひそめ、「この信じ難い出来事の証言を残すために、これを書く」という。
《あの連中は私を捜しに来たのではないと思う、たぶん私のことなど見たこともない連中だろう。仕方がない、こんなふうに逃げ隠れするのが私の運命なのだ。》p18

《彼らの出現がどうにも説明がつかぬまま、あんなふうに見えるのは、昨夜の暑さのせいで頭がおかしくなった結果だ、とでも考えたくなってしまう。でも、あれは幻覚でもなければ心象でもない。明らかに本物の人間だ、すくなくとも私と同じ正真正銘の人間である。》p20

 極限状況下での手記、という設定が明らかになるのは、すべて「私」の語りを通してであるので、どこまでが客観的な事実なのかはわからない。追い詰められているのは思い込みじゃないのか? ほんとうに「捕まったら死刑」なのか? 手記はどこまで手記なのか?
 なので、これはいわゆる“信頼できない語り手”もののようだ、と臆断し、ということは、やってきた「連中」が本物なのか、それとも「私」の空想の産物なのかはどこまでいっても判断がつかないばかりか、逆に事実と妄想が渾然一体になるのを目指していく類の小説なんじゃないかと思われて、そういうのは嫌いじゃない、決して嫌いじゃないが、でもその趣向は「またか」の範疇にある――なにしろ70年近く前の小説だからこんなふうに言うのは酷かもしれないが――、などという構えでもってページをめくることになる。
 
 しかしそのような半信半疑の姿勢は長くは続かない。「私」の行動も、それを綴る語り口もあまりにドタバタと切迫していており、半信半疑ではついていけない、ついていくにはひとまず「私」を信用するしかない、ということになるからだ。もちろんそれでも、簡単には騙されないぞという意識をあたまの片隅に自覚しながら読んでいくのだが、それが“自覚”から“自覚しているつもり”に変わり、“自覚しているつもりだった”になってしまうまで、ページ数も時間もあんまりかからなかった。事態がどんどん変になっていくからである。
 博物館でどんちゃん騒ぎに興じる男女たちを恨めしげに眺めていた「私」は、徐々に接近を試み、観察を続け、あろうことか、毎日ひとりで夕陽を見に出てくる女性に懸想してしまう。
《私の希望は、たぶん、あの釣をしている男たちや、あの髭をはやしたテニス服の男に触発されたものにちがいない。今日、見かけはテニスプレーヤーみたいなその男と彼女が一緒にいるのを見て気持がいらいらした。別に嫉妬しているわけではないが、昨日も彼女に会えなかったのだ。あの岩に行こうとしたが、釣をしている男たちがいたので近づけなかった。彼らから声をかけられることはなかった。見られる前に逃げ出したからだ。》p35、太字は引用者

 100パーセントの嫉妬であるが、それはともかく、大事なことが書いてあるのは最後だった。「彼らから声をかけられることはなかった。見られる前に逃げ出したからだ」。これが変である。
「私」がうっかり「連中」に近づいても、ぎりぎりで向こうは気付かなかった、というこのような出来事は何度も起こり、それは彼らが「私」の空想、実際には存在しないことの証拠になりそうなものなのに(つまり語り手「私」の信頼できなさを示す証拠になりそうなものなのに)、不思議とそうは受け取れないような書きかたになっている。いくつか引用する。
 大潮に襲われたある日、とても海辺の低地に潜んでいるわけにはいかず、「私」はやむなく、「連中」が占拠している博物館まで避難する。当然、彼らに見つかってしまうのではないかと「私」は恐れる。読んでいる私も恐れる。
《司祭が朝食をとったり着換えをしたりする控えの間にいると(博物館を占拠している連中のなかには、司祭も牧師も見かけたことがない)、突然、ふたりの人間が眼の前に姿をあらわした。どこからかやって来た、というより、まるで、私の視界あるいは想像の世界にふわっと出現してきた……というふうだった。私は祭壇の下の赤い絹地とレースのあいだに身を隠した。思いきりの悪い、ぶざまな隠れようだった。姿を見られずにすんだ。その時の驚きがまだつづいている。》pp39-40

 うまく隠れて難を逃れた、のでは絶対にない。「私」は「連中」から不意打ちされているのに、不意打ちしている彼らのほうは、これっぽっちも「私」に気を留めないのである。なぜなのか理由はわからないが、事実として、両者のあいだには越えられない壁があるようなのだ。
 そしてまた数日後の夕暮れ、思いつめた「私」は丘の上で、ついにあの女性の前に飛び出してしまう。その結果はこんなである。
《だしぬけにすぎたかもしれない。しかし、彼女の心の平静さは乱れなかった。まるで私が眼に映らないかのように、彼女の眼差しは私を無視したままだった。
 私は諦めなかった。
「お嬢さん[セニョリータ]、どうか聞いてください」》

《もう一度「セニョリータ」という言葉を繰り返した。言葉をかけるのを諦めて夕陽を見つめることにした、この静けさを共有することでふたりの気持が近づくのではないかと期待して。また話しかけた。自分の気持を抑えようと努力すると、声はくぐもり、きざな感じが増してしまう。また数分間、沈黙が流れた。[…]
 私の言葉が聞こえず、私の姿が眼にとまらない、というのとはちがう、まるで耳があっても聞くことの役に立たず、眼があっても見ることの役に立たないとでもいうようだった。》pp46-7

「私」と「連中」には、決定的な距離がある。「連中」が「私」の妄想の産物だとしたら、この状況はあまりにおかしいのじゃないだろうか。自分の妄想から相手にされない、ということになってしまうのだから。
 しかし、「だからこれは妄想ではない」とするのはまだ早い。というか、もったいない。この場合、「それでも妄想」と考えたほうが面白いのである。
 ふつう、小説のある部分について「ここは語り手の妄想っぽいな」から「いや、きっと妄想にちがいない」と判断がつくと、その見極めによって、妄想じたいは一気に色褪せる。しかし上の引用部のように書かれている『モレルの発明』では、事情が逆になってしまう。
 この奇妙な「連中」は、語り手とのはっきりした隔たりのために、妄想には見えない。だからこそ、あえて「私」の妄想だと決めつけ、その線で読んでみると、引用部などでは、「私」は、ひとりだけ妄想の蚊帳の外に置かれていることになる(自分の妄想なのに!)。逆から言うと、「私」と同じ次元にない妄想が(「私」の内部にとどまらず)外部に実体化してしまったように見えてくる。
 この構図は、かなりおかしい。“実際に存在する人物が、外にいる”場合よりも、“妄想なのに、外にいるかのように読めてしまう”ほうが、事態としてずっとめずらしく、面白いだろう。読んでいる小説が、なるべく面白く読める読みかたを、私は採りたい。書かれていることを曲解しているのでは決してなく、この小説にはそのような想像を許す余地がある、ということである。
 では、この読みかたで当たっているのか。小説はまだ3分の1も進んでいない。


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