趣味は引用
アドルフォ・ビオイ=カサーレス『モレルの発明』(1940) [1]

清水徹・牛島信明訳、水声社(1990)


 この本の巻頭にはボルヘスによる「序文」があるのだが、そこはさらりと読み飛ばして本篇にすすむと、小説『モレルの発明』はこんなふうにはじまっている。
《今日、この島に信じられぬことが起きたのである。早くも夏になっていた。プールのそばにベッドを置いて、遅くまで水浴びをした。眠ることなど、とてもできない。プールから二、三分あがっているだけで、凪のむんむんする暑さから私を保護してくれるはずの、身体についた水が、汗にかわってしまう。明け方、蓄音機の音で眼をさました。博物館に戻って身のまわりのものを取ってくるゆとりもなく、崖をつたって逃げた。私はいま、島の南の低地の、水草の茂みのなかにいる。蚊の群れに悩まされ、海水というか汚れた流れに腰までつかりながら、あのようにあわてふためいて逃げ出したのは馬鹿げたことだったと思い返している。》pp17-8

 何が起きているのかわからないので、これでは読んでいくしかない。そして徐々にわかってくるのは、語り手であるこの「私」も何が起きているのかわかっておらず、読者以上にとまどっているということである。

 これからしばらく、この小説について、最初に読んだときの気持の動きを思い出しながら、なるべくそれに沿って書いていこうと思う。ということは、趣味の引用に加えて、おそらく大部分があらすじの紹介になってしまうのだが、なぜそんな長くなりそうなことをするのか。
 いちおう理由はある。この小説が面白かったのは、読んでいる最中の自分の気持の移り変わり(これからどうなる? 何が起きているのか? もしかしてこういうことか? それともこういうことか?etc.)が面白かったからで、それはほかのどんな面白い小説でも同じなのだが、とりわけこの『モレルの発明』の場合には、小説の展開に自分の気持の展開が組み込まれていくような不思議な感覚があった。読んでいるあいだ、小説のあとを私がついていくだけでなく、ときには私のほうが小説より前に出ているように感じることさえあったのである。
 そんな錯覚まで含めたすべてが『モレルの発明』から発していて、この小説を読んだせいで生まれた気持の動きはまだ続いている。そこのところを忘れないよう文章にしておこうと考えると、書きかたは自然、引用しながらあらすじをなぞることになるのだった。いいかえると、私は小説に翻弄されるのがほんとうに好きなんだなあと思った次第。
(今回、引用部のページ数は自分の読んだ旧版のものです。下に貼った新装版の現物を確認していない私には、そこに異同があるかどうかは不明)


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モレルの発明 第2版 (フィクションの楽しみ)モレルの発明 第2版 (フィクションの楽しみ)
(2008/10)
アドルフォ・ビオイ・カサーレス

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