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江川卓・亀山郁夫共編『ドストエフスキーの現在』(1985)

JCA出版

 23年前に出た、ドストエフスキー論集。だから「現在」は「23年前」である。
 ドストエフスキーの、23年前。意味のない言い換えであった。目次をメモ。
山路龍天:
 『悪霊』ノート ―スタヴローギンをめぐる図像論分析の試み―
津久井定雄:
「悪霊」の町はこうして燃え始めた ―「情報構造論」の試みとして―
亀山郁夫:
 スタヴローギン ―使嗾する神―
井桁貞義:
 ファウスト伝説のなかの『悪霊』
諫早勇一:
 分身の現在 ―ドストエフスキイの『分身』と現代の分身たち―
渕上克司:
 ドストエフスキーへの心酔と反逆 ―レーミゾフの場合―
萩原俊治:
 ポリフォニーについて
長屋恵一:
 『罪と罰』のそっくりさん
伯爵・神山宏
 ムイシュキンの魔性
安藤厚:
 「道化」と「僭称」 ―『悪霊』の創作過程から―
鈴木淳一:
 教養小説『未成年』への招待
望月哲男:
 決疑論の展開 ―『カラマーゾフの兄弟』の一面―
左近毅:
 革命する超人の弁明 ―ドストエフスキイにあてたネチャーエフの手紙―
小岸昭:
 角をもった王子 ―『悪霊』と第三帝国―
江川卓:
 ドストエフスキーの現在

 おお、あの人が、という名前もちらほらあるけれど、ここで何より目をひくのは太字にした伯爵・神山宏だろう。爵位? それは爵位なの? しかも扱ってるのがムイシュキン(公爵)なのでちょっと笑える。そんな態度で読んでいたわけだが、ところで、編者あとがきにこんな部分があった。
《編集上とくに注意をひいたのは、集まった原稿の約半数が、多かれ少なかれ『悪霊』をテーマに扱っていたということである。政治の季節から遠くへだたった現在もなお、ドストエフスキーに対する関心が『悪霊』に集中したという事実は、あまりにも興味深く、[…]p295

 それってつまり、『悪霊』がそもそもそれだけの話ではなかった、あるいはぜんぜんそういう話ではなかった、ということでいいんじゃないだろうか。
(なかには、たんに書いてる人が「政治の季節から遠くへだたっ」ていない場合もあるように見えたけれども)
 去年出た、こんな本ではどうなっているのかちょっと気になった。

 で、収録されているなかでいちばん面白く読めたのが「江川卓  ドストエフスキーの現在」だったのは、これがインタビューから起こした原稿なので読みやすいのと(インタビュアーは亀山郁夫)、専門家だけに向けたものではないことをいちばんはっきり意識して、間口を広くとって書いている(喋っている)からだと思う。
[…] たまたまその時レニングラードを案内してくれた人が、後に国外に亡命してしまうマルク・ベヴズネル君という大変優秀な、文学のよくわかる青年で、是非「ソーニャの家」を見てもらいたいと案内してくれ、それが「ソーニャの家」と名付けられた由来を話してくれたわけです。ソーニャの部屋は、片隅が鈍角で片隅が鋭角という奇妙にいびつな部屋だと小説には書かれていますが、二〇世紀の研究者たちが一生懸命捜して歩いたら、まさしくそういう部屋が見つかった。そして、恐らくドストエフスキーはこの部屋に来たことがあるに違いないという結論になった、というのですね。つまり、ぼく自身もそれまで考えていたように、ドストエフスキーの幻想がこのいびつな形の部屋を生み出したんじゃなくて、いびつな部屋に身を置いた感覚が、ドストエフスキーに小説的幻想をささやいたのだ、ということになったわけです。マルク君としたその話が、ぼくの中のドストエフスキー像を逆転させたようですね。ちょうどその頃、ピーサレフの『生活のための闘い』を読んで、ラスコーリニコフは決して理論のために殺人をしたのではなく、病気で貧しかったから殺したのだ、と言っているのにも妙に共感して、その線で『罪と罰』を訳し直してやろうという気概を持ったわけです。》p274-5

 なんだか新鮮だった。ちなみにインタビュー中で「いま書いている途中なんです」と言っているのが、あの『謎とき『罪と罰』』である。『罪と罰』、私は新潮文庫でしか読んでないけど、『謎とき~』を面白いと思うからには岩波文庫版も読むべきかと、まえから何度も考えていることをまた考えた。
コメント
この記事へのコメント
あれっ!?
「ソーニャの部屋は、片隅が鈍角で片隅が鋭角という奇妙にいびつな部屋だと小説には書かれていますが、二〇世紀の研究者たちが一生懸命捜して歩いたら、まさしくそういう部屋が見つかった。そして、恐らくドストエフスキーはこの部屋に来たことがあるに違いないという結論になった、というのですね。つまり、ぼく自身もそれまで考えていたように、ドストエフスキーの幻想がこのいびつな形の部屋を生み出したんじゃなくて、いびつな部屋に身を置いた感覚が、ドストエフスキーに小説的幻想をささやいたのだ、ということになったわけです。」この文章は、新聞か、テレビで、そっくりそのまま、拝見しましたが。それとも、「江川卓  ドストエフスキーの現在」この本を読んだのかしら?記憶がさだかでないのです。忙しすぎて!うぅーーん 不思議感覚なのか、ただの具体的な事実なのかナ?ットシタラ、普通のことなのです。このお部屋には魅力を感じました!
2008/10/25(土) 21:03:46 | URL | miki1 #-[ 編集]
再度
「23年前に出た、ドストエフスキー論集。だから「現在」は「23年前」である。」この文に似た文章?も少し前に新聞です。多分。気に入って、「高校生の時のことを話しているなら、高校生そのものなのだョ!」と解釈したことで、その時は高校生そのものなのです。この言葉も印象的で、人間の寿命が100年と限られたものであるとしたら、その限られた時間、命を無限にながぁーく生きる事が出来て、得した!と思ったのでした。そして、そのような「なりきりの生き方」をしようと思ったのでした。眩暈のようにくらくらと、高校生そのものの自分が居るのです。(完)
2008/10/25(土) 21:13:04 | URL | miki1 #-[ 編集]
再再度
前の文章ですが、歳をとるのではなくて、0歳から100歳まで、重みは『並列』であるということ!っと、得しました。(完2)
2008/10/25(土) 21:15:52 | URL | miki1 #-[ 編集]
発展
「並列」ではなくて、0歳、小学生、中学生、・・・・・・・・・・100歳、104歳と「重層」なんだと、気がつきました。これぞ、ポリフォニー。やはり、人間も木と同じで、年輪があって、バウムクーヘンで、同時にあかんぼと大人を生きている、あかんぼでいい!大人でいい!悲しくていい楽しくていい!すべて同居でいい。らしい。混沌でいい。らしい。かしこくてもかしこくなくてもいい。らしい。
2008/10/25(土) 21:31:38 | URL | miki1 #-[ 編集]
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