趣味は引用
日記

■ 家に帰ってまず最初にすることが「パソコンの電源を入れる。そしてネットを見る」以外にありますか、と、友達がビールを手につぶやいたのはたしか先々週の土曜日で、空いたグラスや小鉢や灰皿がごちゃごちゃ置いてあるテーブルを囲んだ一同、そうだそうだ!ぼくも、わたしも!と強くうなずくなかに自分も入っていたのだが、しかし先週の私はあんまりネットに立ち入らず、本を読んで夜を過ごしたのだからわからないものである。
 
■ 読んだなかでは、とくに青木淳悟の既刊2冊、四十日と四十夜のメルヘン(2005)いい子は家で(2007)が面白かった。
 どちらも出たときに買って読んで、よくわからないなりに面白がっていたけれども、再読してみたら、最初のときよりさらに面白い。それでいて、やっぱりよくわからないままである。
『四十日と四十夜のメルヘン』収録の表題作は、いちばん読みやすいだけあって面白さもいちばんつかみやすく、最後まで読んだらそのまま最初に戻り、続けてまた最後まで読み返していた。読めば読むほど面白い箇所が増える。
「面白い」「面白い」でちっとも具体的じゃないが、とりあえず、「どこが面白いんだかわからないまま読んでいくのが面白い」タイプの面白さである。何のことだかわかるまい。

■ で、きのうから、その青木淳悟を発掘した保坂和志の新刊小説、世界の奏でる音楽を読んでいる。これがもう、すごい。まだ半分も越えていないあたりだが、おなじく買って読んでいる最中の友達と「ここがすごい」「ここもすごい」とメールしながら本を読むなんて経験はなかなかない。
(この本は、小説の自由(2005)小説の誕生(2006)に続き、保坂和志が小説をめぐって考えるプロセスを記録した3冊目になる。これでいちおう完結、らしい)
 いま自分が読んでいるものに引っぱられながら考えをすすめていくやりかた(積極的な受動性、という言葉がこれまで読んだどこかにあった気がする)は相変わらずながら、他人の小説を読んでみせる手際に、なぜだか今まで以上に熱がこもっているように見える。
 そのいっぽう、“小説論”ではなくはっきり“小説”として書かれている「K先生の葬儀実行委員として」という短篇は、初出時に雑誌だかネットだかで目にした「あれはすごい」という噂にたがわない、妙なものになっていた。不穏な雰囲気で帯電しているような感じ。
 しかししかし、それ以上にすごかったのは、そのあとに来る「涙を流さなかった使徒の第一信」と題された第4章で、きのう読み終えたここの部分があんまりすごかったので、今日はあたまを冷ますためにキーボードを叩いている。
 
■ 「涙を流さなかった使徒の第一信」は、保坂和志が最大の尊敬をささげる小島信夫の死に際し、涙も出ないし悲しくもならなかったのはなぜだったんだろう、というところから始まって、いつにも増して手探りのまま書きすすめられていく。「読んでるこっちはボロボロ泣ける」とか「胸を打たれる」とかではぜんぜんなく、ただ、話のすすめかたの迫力に圧倒される。逸脱というか、「なぜそこからこの話になるのか」という転換(ただし書いている当人のなかではつながっていることも確信させられる)が何回もあり、どうなっちゃうんだと思うあまりに読むのがやめられない。
 わりと前のほうだが、小島信夫や親族の死から、文字と記号の話をしていたのに、139ページでとつぜん自宅の周囲にいる外猫たちの話に変わって(というか、外猫たちの話が否応なくあらわれて)、ページをめくった次の140ページに「外猫の系図」が出てきた瞬間の「!?」という異様な感触は、ほかで感じたおぼえがない。すごい。
 それでいて、おどろくべきことに、最後には結論めいたところまでたどりつくのだが、出た結論を本人が「ぜんぜん足りない」と思っているのが生々しく感じられるあたりもまたすごい。

■ 「すごい」「すごい」じゃバカみたいだが、ものすごく重たい何ものかが、差し迫った感じではちきれそうになったまま、どうどうと音を立てて流れ去っていくみたいなこの40ページの塊りの前では、自分がバカに見えることなんか何ほどのものでもない。
 まだ300ページも残っているから、これ並みにすごい章がまだあるのだろうか。そして、それに自分は「すごい」と反応できるんだろうか。結局、あたまは冷めないのだった。


小説、世界の奏でる音楽小説、世界の奏でる音楽
(2008/09)
保坂 和志

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