2008/09/29

『ディフェンス』メモ

《――あの最後の日に、老人が鼻から大きく息を吸い込むところを見せた長い熱戦の後で、ルージンは何かが自分の中で解き放たれ、何かがはっきりと見えるようになったのを知り、チェスの視界を厄介にも曇らせていた頭の中の近視が消え失せたのを知った。「ふむ、ふむ、これはドローだな」と老人が言った。老人は壊れた機械のレバーを動かすみたいにクイーンを何度か前後に動かしてから、こう繰り返した。「ドローだ。チェスの千日手だよ」 ルージンもうまくいくかどうかレバーを試してみて、ごそごそ、ごそごそとやってから、じっと座ったまま、視線をこわばらせて盤を見つめた。「きみはたいしたものになるぞ」と老人が言った。》p55

 ナボコフの『ディフェンス』新装版を読んだ。
 この小説がすごいのは、作者が、書いている小説を完璧にコントロールしていることだ。もちろん、どんな方法でどこまでやれば完璧なのかをこちら(読者)の側から測れるわけがないので、いま書いたことは、読んでいると「ああ、作者が完璧にコントロールしている」と感じられるということ、作者が読者にそう確信させることをこそ、私はすごいと思っている、ということになる。
 ナボコフが「まえがき」で自画自賛する第4章、70ページにある一段落なんかを堪能し、ほかにも何度も仕掛けられる曲芸みたいな時間の飛ばしかただとか、山ほどある細かい照合だとか、そしてもちろん、小説の進行に従って主人公・ルージンを追い詰めていく手際の容赦のなさだとかに、読んでいるあいだは平伏してしまう。すすんで平伏するのをもって、読むのを楽しんでいる。そして読み終えてから、「これってすごく閉じているよな」という気もするのだった。
 変な言いかただが、ルージンがこの小説から(ナボコフの意図から)出られないように、これではナボコフもこの小説から出られないように思う。緻密な設計だとか周到な配置に基づいた作りかたは、どれだけ上手にやっても、いずれ先細りなんじゃないかという予感もする。

 いや、もちろん、この予感は遅いうえにまちがっていて、じっさいのナボコフの『ディフェンス』以後の作品を(そんなに読んでるわけではないけど)先細りしているとはまったく思わないわけだし、念のためもういちど最初から最後まで読み返してみれば、やっぱり『ディフェンス』は面白い。そしてその面白さは、こちらからは手の触れようもない、ガラスケースに入った鑑賞品としての面白さ、というのとはちがうと感じる。
 だいたい、作者ではないこの自分が面白いと感じる・感じられるという一点をとっても、作品が「閉じている」と言ってしまうのは当たらないように思うのだ。それで考えてみるに、最初に書いた、
 
 この小説がすごいのは、作者が、書いている小説を完璧にコントロールしていることだ。

 というこの素朴な感想が、ほんとは合ってなかったんじゃないかと疑ったのである。じつはコントロールしていない、というのではなくて、すごさの根っこはそこではないんじゃないか、という意味で。
 じゃあ何が本当のすごさなのかというと、私にうまくまとめる言葉はぜんぜんないのだけれども、“作者が超絶技巧でもってじぶんの意図を実現しおおせる小説”と、“書いていくうちに作者がじぶんの意図しないものまで書いてしまう小説(そこを狙って=意図して書いていくものも含め)”という、同じ「小説」といってもほとんど別の表現形式みたいなふたつのタイプがあるとして、両者をいっしょくたに何かを言おうとする・何かが言えると思うのはまちがっており、一読者としてはどちらもそれぞれに面白がっていればいい――とたいていの場合は思っているが、それでいいのか疑うこともたまにはあったりする。だいたい、いまの二分法が正しいとも思えない。何かは、何かは言えるんじゃないのか。

 でもいまはこれ以上何も書けないので、『ディフェンス』から引用する。ひとつめはライバルとのチェスの試合。ふたつめは、神経の参ったルージンが目をさます前後。私の考えがどう変わっても、この文章芸にゾクゾクするのは変わらないと思う。
《ルージンは念には念を入れて指そうと決めた。最初のうちはまるでミュートをはめヴァイオリンのようにそっと、そっと進行した。両者は用心しながら布陣を敷き、あれこれの駒を丁寧に進め、狙いがあるようなそぶりはまったく見せなかった――もし狙いがあるとしてもまったく常識的なもので、そのあたりに逃げ場所をこしらえた方がいいよと相手にほのめかす程度にすぎず、相手はそれがまるでつまらない冗談みたいに微笑み、しかるべき場所を強化してほんのわずかに前進するだけだった。そして、なんの前触れもなく、弦がやさしく鳴り響いた。それは対角線を制しているトゥラーティの駒だった。しかしただちにかすかな旋律がルージンの側にもそっと現れた。一瞬幻の可能性がふるえ、それからまたすべては静寂に戻った。トゥラーティは退却し、引きこもった。そしてまたしばらくのあいだ両者は、まるで前進する気がまったくないかのように、自陣の手入れに専念した――手を入れ、組み替え、整える。そのときまた突然に火花が散り、すばやい音の組み合わせが轟いた。二つの小隊が衝突し、どちらもすぐに一掃されたのだ。一瞬の、達者な指の動きで、ルージンが取り除いてそばのテーブルに置いたのは、もはや実体のない力ではなく重くて黄色いポーンだった。》pp138-9

《そして幾世紀もの暗黒が過ぎると――地上ではたったの一晩だった――光がふたたび生まれ、突然何かがまばゆいばかりの光を放ち、暗闇が分かれて、消えゆく影のような枠の形で残るだけとなり、その中央には輝く青い窓があった。その青の中で小さな黄色の葉が輝き、斑の影を白い木の幹に投げかけ、その木が下のところで樅の木の濃い緑の前足に隠れている、その光景が突然生命に満ちあふれ、葉は震えだし、斑点が幹に忍び寄り緑の前足は振動して、ルージンがそれを支えられずに目を閉じると、輝く振動は瞼の裏に残っていた。ぼくは昔あの木々の下に何かを埋めたことがある、と彼は思って幸福にひたった。そしてそれが何だったのかをもう少しで思い出そうとしたときに、頭の上でがさごそいう音と穏やかな二つの声が聞こえた。彼は耳をすまして、自分がどこにいるのか、何か柔らかくて冷たいものが額の上に乗っているのはなぜなのか、理解しようと努めた。しばらくしてふたたび目を開けてみた。白衣の太った女が手のひらを彼の額にあてている――そして窓の中には同じ幸せな輝きがある。》pp161-2

 うえに書いたことは、以前の感想を逆順にしただけかもしれないと思った。


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