2008/09/17

百閒の続き

…前回


 内田百閒『私の「漱石」と「龍之介」』の続き。もう漱石も芥川も関係ない。
 
 百閒の書いた文章のなかには、ときどき、なんというのだろう、感覚を即物的に写しとったような部分があらわれる。
 たとえば――と言って、前置きが長くなるが、百閒には「迷走神経の過敏症、或は神経性心悸亢進症」という持病があったらしい。発作が起きると動悸が高まる。苦しい。何かのはずみですぐ治ることもあれば、治りそこねて結滞が続くこともある。
 陸軍の砲工学校で教師をしていた時分の百閒は、ある日、授業中に発作を起こす。軍医室の下士官が来てくれたが、脈を見ておどろき、百閒を置いて医者を呼びに行ってしまった。
[…]仕様がないなと思ひながら、苦しいのを我慢して、一人で医務室まで辿りついた。
 その後からすぐにさつきの下士官が這入つて来て、私を診察室のベッドに寝かした。さうして向う向きになつて、薬瓶の一ぱい列んでゐる大きな硝子戸棚の前に起つて、何かしてゐる。その後ろ姿を見ながら寝てゐると、段段動悸がひどくなつて、肋の内側がいたみ出した。何だか気分が悪いなと思ふ途端に、急に胸の中を苦しい塊りの様なものが動いたと思つたら、それが頸から上がつて、両方の耳の内側にぶつかつた様な軽い衝撃を感じた。その瞬間耳から何か抜けて行つた物がある様な気持で、ほつとすると、その拍子に発作がなほつてゐたのである。
「あつ、なほりました」》「竹杖記」 p214

「神経性心悸亢進症」の発作を起し、しかもそれがとつぜん治った、という経験がなくても、これを読むと、「耳から何か抜けて行つた物がある様な気持」は、わかる気がするのである。
 特異な感覚がふつうの言葉で書いてある。手で触ることができないもの、それも「感情」とか「内面」ではなく、それこそ「感覚」を、手で触れられるものであるかのように言葉にしてしまう。なんだろう、この書きぶり。

 ところで、これが筒井康隆だとどうなるか。
 思いついたのでメモすると、「薬菜飯店」(1987)という短篇がある。語り手の「おれ」が入った中華料理屋は、身体に直接に作用してその場で悪いところを治してしまう料理を出す店だった(『ジョジョ』第4部に出てくるトニオの店の元ネタである。言わずもがな)
 眼に効く鮑の料理を食べると、とたんに涙が流れ出て視力まで良くなるとか、鼻に効く蛤料理を食べると鼻水が洪水になって鼻づまりが治るとか、軽いところからはじまって、徐々にグレードが上がり、煙草の吸いすぎである「おれ」の、汚れきった喉と肺、さらに胃を治す料理が出てくる。食べて飲んでしばらくすると――
《腹はすぐに鳴りはじめた。と同時に、首の左右の根っこの部分に大きな塊りのようなものがゆっくりとこみあげてきた。それは次第にふくれあがりはじめた。手でさわってみると、顎の下の左右がお多福風邪のように大きく腫れあがり、瘤ができている。さわったり押したりしない方がいいのだろうな。血のめぐりが悪くなって眼がまわりはじめ、吐きたい気分になってきた。や。気管支の方からも何かやってきたぞ。まっ黒けの、何やら機関車の如きものだ。臭い蒸気を吐いている。さらに胃の方からも酸性のピンポン玉がいくつか這いあがってきた。頭がぐらぐらする。何やらえらいことになりそうだ。顎下腺から、ちゅるちゅるとチューブから押し出されるように毒の粘液が口の中へあらわれた。続いて舌下腺からも、耳下腺からもだ。気管支の方からやってきた機関車がピーと蒸気を吐き、ごうごうと音を立てて口と鼻から噴出した。だばだばだばだば、だぼだぼだぼだぼと、その黒く重い粘液はバケツの中に音を立てて落ちていった。その直後、おれは胃からきた塊りを口からがっと吐き出した。次いでがっ。がっ。がっ。がっ。がっ。
 おれは恐慌に襲われた。鼻と口から際限なく粘液が噴き出るため、呼吸ができないのだ。》
 
[…]彼女はおれの上半身を起し、背後からおれの背中を握りこぶしで力まかせに叩くと同時に、膝でおれの腰骨の上をいやというほど蹴りあげた。
「ぐわっ」
 驚くべき大きさの、タールの塊りの如きまっ黒けのものがおれの口から吐き出され、バケツの中でごろりと転がった。それだけで、バケツの中はほとんどいっぱいになってしまった。》
『薬菜飯店』(新潮文庫、1992) pp27-9
 
 ええと、さて。百閒の場合だと、
《急に胸の中を苦しい塊りの様なものが動いたと思つたら、それが頸から上がつて、両方の耳の内側にぶつかつた様な軽い衝撃を感じた。その瞬間耳から何か抜けて行つた物がある様な気持で、》

とあったように、あの文章は、実際にあった感覚を描写するための、あくまで「様な」のたとえばなしだった。そのたとえがうまいので、自分では感じたことのない感覚が、「百閒には実際にあったんだろうな」と、わかった気になる。

 筒井の文章だと、「大きな塊り」だとか、「瘤」、「毒の粘液」、「タールの塊りの如きまっ黒けのもの」は、たとえではない。実際にあったものとして描かれている。いや、ここの順序は逆で、実際にあったものとして描き出されているから、「作中で実際にあったもの」ということになっている、のである。同語反復ではないと思う。
 結果、実際にはないはずのもの(並外れた吐瀉物)と、実際にはないはずの行為(並外れた嘔吐)に、私は手触りと実感までおぼえる始末だ。
 筒井の場合に起きているこの作用(書かれたことで、事物が作り出される)が、百閒の場合にも起きていると考えるとどうなるか。

 じつは百閒は百閒で、上の文章でもって、実際には存在しないもの(感覚)を存在させてしまっているのじゃなかろうか、という気がしてくるのである。
 胸の中を動く苦しい塊り。それが耳の内側にぶちあたる衝撃。
「この感覚はわかる気がする、すごいなあ」くらいでスルーして、本当にいいのかどうか。
 そして、これだけながなが書いてしまえば、事の正否はともかく、スルーではもはやない。

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