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2008/09/15

内田百閒『私の「漱石」と「龍之介」』(1969)

私の「漱石」と「龍之介」 (ちくま文庫)
ちくま文庫(1993)

 内田百閒が、師であった夏目漱石と、友人だった芥川龍之介について書いた文章のあれこれをまとめてできた本。
 
 岡山の中学生時代から尊敬していた大作家の門人になり、遠巻きに眺めながらますます尊敬が高まって、そのくせものすごい強引に借金を申し込んだりもする、漱石との付き合いを書いた文章も面白いけれど、いろいろ引用してみたいのは、芥川についてのほうだった。
《規定の課目数の試験も受けられないので、一年目の講義は殆ど未修了、体の好い落第で四年の学生生活を送つた、その四年目の希臘羅馬文学史の時間に、コット講師が鉛筆の尖つた所を指に挟んで、軸を踊らせながら、自分の鼻をこつこつ敲いてゐる。さうして、頻りにあてる学生の名前が珍しいので、私はいつの間にか覚えてしまつた。コットさんは、アキユタガアワと呼んだのである。》「竹杖記」 p208

 ちくま文庫から全24巻で出ている『内田百閒集成』、私はあれを半分くらいしか読んでいないのでたいしたファンではないのだけど、読みはじめたころに思ったのは、「随筆と小説では、同じ人が書いたような気がしない」、ということだった。よくよく読んでみれば、ユーモラスな随筆の底にも、小説にあふれる不気味な雰囲気がちらちらのぞいているような気もしてくるのだが、しかし、『阿房列車』『冥途』の作者が同じ、というのは、私にとっていまだに謎である。
 それで、故人の思い出を綴った文章なんていうものは、ふつう随筆に近いものになるだろうと考えられるし、じっさい漱石についてのものはたしかにそうなっているのだが、芥川のことを書いた文章は、はんぶん随筆に踏みとどまりつつ、ところどころで小説に(もちろん、百閒の小説に)片足を突っ込んでいるような印象があった。
 芥川という人間のありかたが百閒の小説の雰囲気と似ていた→ゆえにふたりが友達になったのも当然、というわかりやすい話なのかどうかはわからない。だって、ここで私の目の前にあるのは「百閒がとらえた芥川」なんだから。ともあれ、芥川の姿を書くと百閒の文章は小説になってしまう、という感じ。これなんてどうだろう。
《それから数日後に、もう一度会つたときの芥川は、半醒半睡の風人であつた。薄暗い書斎の床の間の前に据ゑた籐椅子に身を沈めて、客の前で昏昏と眠つた。不意に目を醒まして、曖昧な応対をしたりした。
「そんなに薬を飲み過ぎては、身体の毒だよ」
「いいよ。それに、こなひだ内からおなかを毀してゐたものだからね」》「湘南の扇」 p229

 この日のことを書いたのはほかにもある。
《私は芥川の死ぬ二日前に会つてゐる。その時は麻薬の量が足りなくて、まだ目をさましてゐたところなのであつた。勿論私はさう云ふことを知らないから、お酒の酔つ払いの様で、べろべろして、変な芥川だと思つた。》「河童記」 p233

「べろべろして、変な芥川」という書きかたの即物的な感じもすごいが、ここでぎょっとするのは「麻薬の量が足りなくて」だった。
 芥川の自殺の方法と言ったら、「睡眠薬」の過剰摂取、ということになっていると思うが、百閒がこれらの文章を書いていた時代では(あるいは百閒の用語法では)、「睡眠薬」は「麻薬」なのである。そこに思わずつまずいた、という以上に実のある感想ではないのだけど、それでしげしげと「麻薬」の文字を見ていると、だんだん不気味な気持になってくる。なにより「麻」という字のあやしさがずるい、って、これもよくわからない感想だが、いまふたつ並べた引用のひとつめは、ページをめくると
《その時会つた本屋の人が、二十四日朝の電話口に出て、私に悲報を伝へた。
「芥川さんがお亡くなりになりましたが」
 私は、どんな返事をしたか、ちつとも覚えてゐない。
「まだ御存じないと思ひまして」
「自殺なすつたのです」
「麻薬を沢山召し上がつて」
「左様なら」
 芥川の家に行つて、奥さんに一言お悔やみを述べた様な気がするが、はつきりした記憶ではない。》pp230-1

 となっていたりして、「麻薬を沢山召し上がつて」だといっそうあやしさが増すのだった。静かにおそろしい、とか、ひっそり不気味、というだけでは、私の受けた印象と何かがちがう気がするので、ここで「左様なら」も付け足した百閒はすごい、ということにしておきたい。いやこれもちがうんだが。

続き…

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