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2008/09/08

竹内康浩『東大入試 至高の国語「第二問」』(2008)

東大入試 至高の国語「第二問」 (朝日選書 846)
朝日新聞出版


 げんなりするタイトルだがだまされてはいけない。
 というのは、私じしん、↓ここにある書評を読んでいなければ、この本が書店で並んでいても目が上滑りするか、目がとまっても、タイトルにげんなりするだけで終わっていたかだろうと思うから。
 
  紀伊國屋書店「書評空間」2008年08月11日(阿部公彦)
 http://booklog.kinokuniya.co.jp/abe/archives/2008/08/post_27.html

 ここに書かれてある通りで何も付け足すことはないんだけど、なんでも東大入試の「現代文」には、1999年まで、独特な200字作文の「第二問」があったという。何十年かぶんの過去問を定点観測するように見ていくと、そこでは、ちょっとどうかしているくらいに繰り返し繰り返し、「死」にまつわる文章が取りあげられていた。そこで著者は「第二問」を代表するいくつかの問題文と真剣に向きあい、問題を読みほどいていく。
 これだけ聞くと「なんだかなあ」という印象は否めないけれども、本書いちばんの勘どころを、上にリンクを貼った書評がきれいにまとめているので、孫引きになるけど以下にコピペしてしまう。

最初にとりあげられるのは、1985年3月に出題された「金子みすゞ」の「積もった雪」および「大漁」というふたつの詩作品である。設問は次の通り。「次の二つの詩は同じ作者の作品である。二つの詩に共通している作者の見方・感じ方について、各自の感想を一六〇字以上二〇〇字以内で記せ。(句読点も一字として数える。)」

「積もった雪」

上の雪
さむかろな。
つめたい月がさしていて。

下の雪
重かろな。
何百人ものせていて。

中の雪
さみしかろな。
空も地面(じべた)もみえないで。


「大漁」

朝焼けだ小焼けだ
大漁だ
大羽鰯の
大漁だ

浜は祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
鰯のとむらい
するだろう。

 この詩をどう読むか。竹内は、齋藤孝らによる、受験あんちょこ本の解答をひいた上で、「声無きものの声を聞く」といったような模範解答に潜む「いい人コンテスト」的な態度を批判する。そして、ほんとうに大事なのはもっと注意深く詩行を読むことだとし、レディメイドの「感想」とか「同情」に走ることなく、作品の構造をしっかりととらえることの重要性を解く。その結果出てくるのは、「見えないものに対する想像力」といった安っぽい倫理性ではなく、「お互いがお互いの不幸を呼び寄せているという連鎖」の認識だという。こうして本書における「死」との対話がはじまるのである。
(最後の太字は引用者)

 ちょっとおどろくと思う。私はびっくりした。でもこれは、奇をてらった思いつきや無理のあるこじつけではなく、じっさいに本書をめくれば、この詩がどうしてこう読めるのか、どうしてこうとしか読めないのかが、懇切丁寧・かつ明快に説明されている。
 竹内康浩は、ただ書かれてあることだけを材料にして、それを徹底的に読みほどき、テキストの表面から隠された意味――ではなく、じつは隠されていないのに、書いてあるのに“見えない”意味を、明らかにしてしまう。そこまでしてはじめて「ちゃんと読む」になるのではないか。すごい。
 もしかすると筆者は、「ちゃんと読む」そぶりを通して私をだましている、ということになるのかもしれない。しかし、だまされる快感を与えてくれるんだから、私はぜんぜん構わない。なお、さっきの書評にはこのようなフレーズもあって、本書のそのへんの感触を見事に表現している。
[…]竹内の文章は誘惑的なまでに読みやすく、まるで「あたしのこと、ほんとうに好きなの?」という問いに答えぬまま事を進める紳士みたいに、いつの間にか頁を繰る手は止められない、ということになっている。

 この書評もつくづくうまいと思うので、もういちどリンクを貼っておく。

 紀伊國屋書店「書評空間」2008年08月11日(阿部公彦)
 http://booklog.kinokuniya.co.jp/abe/archives/2008/08/post_27.html


 しかし、最初にも書いたけど、この本のタイトルはあんまりだと思う。そのせいで、amazonだと関連書籍に「ドラゴン桜」の本とかが並ぶのだが、「そこに関連はない」と大声で言いたい気分だ。
 私はそもそも、うえの書評でもって本書の存在を知ったのだけど、何の情報もなく本屋でこの本を見ていたら、まず手に取ることもなく、だから、小さく印刷された「竹内康浩」の名前が、『『ライ麦畑でつかまえて』についてもう何も言いたくない』(1998)を書いた人のものだということも思い出せなかっただろう。危ないところだった。
 そう、ついでに書いておくと、10年前の『『ライ麦畑でつかまえて』についてもう何も言いたくない』もすごい本だった。
 
『ライ麦畑でつかまえて』についてもう何も言いたくない―サリンジャー解体新書『ライ麦畑でつかまえて』についてもう何も言いたくない―サリンジャー解体新書
(1998/03)
竹内 康浩

商品詳細を見る


 これはもちろん、サリンジャーのあの長篇についての本だけど、筆者はやっぱり、小説を綿密に読みほどき、あちこちに散らばる細部を拾いあげ、べつに隠されていたわけでもないのに私には見えなかったさまざまな意味を取り出して、ものすごくわかりやすい言葉で語り続ける。手品を見ているような気持になる。
『ライ麦畑』のなかでは「違うものが同じになる」とか、「主体と客体の同一化が夢見られていて、その先には死がある」とか(大意)、竹内康浩はホールデンにもまさる饒舌さで語り、語って語って語りまくって、ついに「もう何も言いたくない」、ということだろうから、こちらの書名はとても秀逸だったと思う。実際にはもう1冊、本を出しているわけだが(→『ライ麦畑のミステリー』[2005]、こちらは未読)。

『ライ麦畑』を『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(2003)として翻訳した村上春樹が、この小説について、柴田元幸を相手にあれこれ喋った『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』(2003)も面白い本だったけど、『もう何も言いたくない』を読んでからだと、いっそう楽しめると思う。
 村上春樹はこの本で、
《『キャッチャー』を批評する人って、どうしてもその読者層のほうに目が行っちゃうんですよ。なぜ『キャッチャー』がこれほどカルト的な存在になっているのか、みたいなほうに関心が行ってしまう。だから、この本を自立した文学作品として、純粋なテキストとして捉えた評論というのは、意外と少ないんじゃないのかな。》p29

と言っているのだけれども、『もう何も言いたくない』は、「意外と少ない」例外だと思う。この竹内本を読んだあとでは、春樹の読み方では「まだまだ踏み込みが浅いんじゃないか」と思うところさえいくつかあった。
 とはいえ、これはもちろん、テキストのなかに立てこもるようにして「何が書かれているか」に傾注して検討した研究者と、テキストじたいが「どのように書かれているか」をまるごと日本語に移し換えた翻訳者のちがいなので、どっちがすぐれているとかの話ではないけれども(だいたい、この二分法が粗雑すぎるし)。
 
 いま『サリンジャー戦記』をざっと読み返してみたら、1ヶ所だけ、柴田元幸が竹内本に触れているところがあった。それはこの小説の最後近く、ホールデンに一種の成長を見るかどうかをめぐるところで、「見る」とする竹内本に対し、春樹は「それはちがうんじゃないでしょうか」みたいなことを述べている(158-60ページ)。
 お、対立!と思うんだけれども、春樹の言っていることは、竹内本への異論というよりも、むしろサリンジャーへの(少なくとも、ホールデンへの)異論になっていて、その交錯する具合がスリリングだった。それはつまり、竹内本が、きちんとこの小説を延長していった先に位置しているということだろうから。
 
 東大入試の本の感想が、ぐだぐだとサリンジャーの話になってしまったが、まとめていうと、
 
 (1)竹内康浩の書くものはすごく面白い
 (2)この人のように「ちゃんと読む」人の書くものをもっと読みたい
 
 という単純なことだった。
 ついでのついでに、両方の本からから引用しておしまい。
 
《ホールデンの主張と行動は、こうした場合は完全に矛盾している。彼が言っていることを手がかりに彼自身の性質を一とおりに決定することは不可能になってしまう。だから、ホールデンは「決定されない人間」だ(と決定するのも矛盾なのだが)。[…]
 そうなると、もはや自分が自分であるというような感覚さえ危うくなってくる。主体と客体の境界がぼやけた世界では見る・触るという「主体的」な行動が消えて、さらにアイデンティティ=自己同一性という自分が自分である感覚さえも薄くなってくるだろう。こうして複数の自我を持った人間が創造されることになる。いや、それは人間が解体されると言ったほうが適当かもしれない。いずれにしても、「現在」に「生きて」いる「正常」で「健康な」「年相応の」「男である」という単一の人物ではなくて、それらすべてを相対化するような、複数の性質を持った人物が描かれる。》
『『ライ麦畑でつかまえて』についてもう何も言いたくない』pp146-7

村上 […]とにかく、フットワークの軽さというか、能弁性をフルに動かしまくって、自我の姿を簡単には捉えさせないというのかな。
柴田 ということは、ホールデンがしゃべりまくるというのは自己表現とか、自己表出ということじゃなくて、むしろ自己から逃げていく?
村上 うん、そういうふうにも言えるかもしれない。というか、自己の位置を簡単にはつかませないということですね。つまり、ホールデンは自分そのものに関しては、ほとんど直接には語っていないんですよね。自分とだれかとの関係性とか、自分と何かとの位置関係に関してはものすごく能弁に、とても細かくしゃべるんだけど、自分というものの本質とは何かみたいなことになると、実質的にはほとんど何も語ってはいない。》
『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』pp153-4

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