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2008/08/21

「モンキービジネス」2008 Summer vol.2 眠り号

モンキー ビジネス 2008 Summer vol.2 眠り号
ヴィレッジブックス


 1ヶ月前の発売なので、もうネットのあちこちで言われているのを何度も目にしたし、目にしてないところでもさらに何度も言われているのだろう感想を、私も言いたい。すなわち、「表紙がすばらしい」。
 上のように画像で見るのと実物とでは色合いが少しちがうが、どちらもすごくいい。藍色の部分に書名の白いアルファベットが重なっているところは、不二家のミルキーに似ていると思う。自分ちにあるというのに、書店で平積みになっているとじっと見てしまう。私は大丈夫か。そんな人間の感想を以下に。


「眠っているのは誰(何)か」

 今号は「眠り号」ということで、巻頭は喜多村紀+きたむらさとし+柴田元幸の3人による鼎談。これが面白い。「夢」の特集ではなく「眠り」の特集なんだよ、とさりげなく注意がうながされて、「眠り」というのは〈わたし〉がいなくなっている状態じゃないだろうか、というあたりから話がすすむ。
 […]「眠っているのは誰なんだろう」と思い始めた。眠っているのは私なのだろうか、と。つまり、どこまでを〈わたし〉とするか、という問題でもあるんだよね。
 人間の活動や行動には随意と不随意とあるじゃないですか。そのうち、随意の部分を〈わたし〉だと考えるとすると、生まれてから死ぬまで、案外〈わたし〉というのは、不随意的なものもいっぱい含んだ肉体に寄生してるだけなんじゃないかと。
〈わたし〉は自分をコントロールしてると思っているけど、実はけっこう小さいものじゃないか。例えば、眠るときには、ある意味で〈わたし〉を捨てちゃうわけだし。》pp10-2

 喜多村&きたむらの2人(兄弟)は画家なので、“〈わたし〉の不在”を感じさせる絵があれこれ引用されて語られる。柴田元幸がL・S・ラウリーという人の絵(→こんなの)を「混んでるキリコ」みたいと評するのを読んだら、もうそうとしか見えなくなった。


眠り文学50選

 小澤英実大和田俊之+都甲幸治+柴田元幸の各氏が、古今東西、眠るシーンのある小説を引用して紹介する。計50作。あ、いや、眠るシーンだけでなく、眠ろうとして眠れない場面のあるものや、眠りについて書かれた部分のあるものも含まれる。
 引用が短いのでもうちょっと読ませてくれ、と思うものがいくつかあり、なら実物を買って読みなよ、ということである。ここでも、「眠り」であって「夢」のほうにあまり立ち入らないのがいい。
 と言いながら思い出したのは、覚醒と眠りのあいだの知覚みたいのを記述したらしい、こういう文章だった。勝手に51作目に加えたい。

《すなわちある晩のこと、眠りにつくまえに、私は、一語としておきかえることができないほどはっきりと発音され、しかしなおあらゆる音声から切りはなされた、ひとつのかなり奇妙な文句を感じとったのである。その文句は、意識の認めるかぎりそのころの私のかかわりあっていたもろもろの出来事の痕跡をとどめることなく到来したもので、しつこく思われた文句、あえていえば、窓ガラスをたたくような文句であった。私はいそいでその概念をとらえ、先へすすもうという気になっていたとき、それの有機的な性格にひきつけられたのだった。じっさいこの文句にはおどろかされた。あいにくこんにちまで憶えてはいないけれども、なにか、「窓でふたつに切られた男がいる」といったような文句だった。それにしても、曖昧さによってそこなわれるようなものではありえず、なぜなら、それにともなって、体の軸と直角にまじわる窓によってなかほどの高さのところを筒切りにされて歩くひとりの男の、ぼんやりとした視覚表現があらわれたからである。まちがいなく、これは窓から身をのりだしているひとりの男を、ただ空中で直立させただけのものであった。》


 私はこの本、最後まで読めたためしがないんだけど、ここはほんとうに好きだな。ひらがな多めの訳文(by巖谷國士)にもほれぼれする。はんぶん意識が沈んだまま、その状態が保てると、知覚がふだん開かない方向に開くような気がする。思うに、あの半覚醒は夢じゃない。眠りに入る直前に乾いた音が響いて(それこそ、窓ガラスを叩くような感じ)目が覚め、いまのはあたまの中で鳴ったのか外だったのか戸惑う、そういうことってあるよね?


リン・ディン『血液と石鹸』より(柴田元幸訳)

 ベトナム生まれのアメリカ作家? 『血液と石鹸』という短篇集からいくつか抜粋して掲載。短篇といっても、リディア・デイヴィス『ほとんど記憶のない女』みたいな形式で、1作1作はほんの数ページずつ。ストーリーもあったりなかったり、ばらばら。今号では、これと石川美雨という人の短歌連作「眠り課」が、黒地に白抜きの文字で印刷されており、それで雰囲気が何割か増しになっているようでよかった。
 さらにリン・ディンのほうは、短篇のあいだに絵が挟まっていて(外人をモデルにばばっと描きなぐったようなかんじ)、それが短篇の印象とぴったりマッチしているから作者が自分で描いたんだろうかと思ったら、MASAKOという別の人の作品だったのでもう一度おどろいた。
『血液と石鹸』は早川書房からじきに出ると書いてあったが、私はこの作家を、この絵と込みでおぼえてしまった。


スティーヴ・エリクソン「ゼロヴィル」(柴田訳、短篇なのか長篇の一部なのか不明)
《「でも……何をお探しなんですか?」。そしてそれからほぼ一週間経って、フィルムを隅から隅まで調べた末に、やっと見つかった。これだ。それからポルノに戻って、ジャンヌ・ダルクの映画と同じように一コマずつ見ていって、それが見つかった。ここにはいったいどういう意味があるのか? 一万二千キロ離れたところで撮られた一九二八年の古典無声映画と、一九八二年のポルノ映画、その両方に埋もれて、上映中には誰一人見えないたった一コマ、モンクだけが受けとるたぐいの秘密の報せに現れるたった一コマのなかに、同じひとつのドアがあって、一方の映画では森の外れに、もう一方では広漠とした草原に立っていたのだ。モンクは両方の映画からその一コマを抜き出して拡大し、眠るときにベッドの上で二つのドアが並んでそびえるよう壁に向けた。》pp121-2

 ――と、このように、映画のフィルムから謎のドアが映った一コマを発見した男の話。エリクソンの妄想は、濃いというか鮮烈。微妙にローザック『フリッカー、あるいは映画の魔』を思い出した。でも、あれのように謎が解決はしないと思う。解決しないから鮮烈なのか、鮮烈すぎて解決しないのか。


スティーヴン・ミルハウザー「イレーン・コールマンの失踪」(柴田訳)

「私たち」の町からある日忽然といなくなってしまった女性について、その状況の報告と整理、考察。
 考察の大部分は、語り手が彼女のことを思い出そうと努めるのに費やされる。語り手はかつて彼女と同じクラスだったこともあるのに、ぜんぜん記憶がないのだ。それはほかの人々にとっても同じである。
《警察の困惑、手がかりの欠如、鍵のかかったドア、閉じた窓。それらを思うと、そもそも問題の設定のしかたは適切なのだろうか、という疑問が私の胸に湧いてきた。私たちは何か決定的な要素を取り込みそこねているのではないか。》p166

 おとなしくて、だれの印象にも残らなかった女性が、30歳を前に姿を消す。彼女を消してしまったのは何なのか。正調ミルハウザーだと思う。
 いなくなる、「不在」、という点で、「眠り特集」にも合っているのかな。


中島敦「悟浄歎異 ―沙門悟浄の手記―

「西遊記」の二次創作で、沙悟浄から見た悟空、三蔵、八戒の姿が描かれる。これを読んでいるときは、やっぱり脇役が語るのが小説だなあと思った。エリクソン読んでるときはそんなこと思い浮かびもしないのに。

 そうだ、「モンキービジネス」は、エリクソンと中島敦がいっしょに載ってる文芸誌なのだった。

 短篇のうしろには、栗田有起の解説「希望なき世で夢をみる」がついている。こういうふうに、古めの作品を現役の作家が紹介する企画は、早稲田文学のフリーペーパー「WB」でもやっていて、面白く読んでます。
(「モンキービジネス」今号では、特集のほうにも小川未明の「眠い町」という短篇が入っている)

 ところで、岩波文庫の『李陵・山月記』だと、この「悟浄歎異」のまえに「悟浄出世」という短篇が置かれている。似た趣向で、悟空たちに出会うまえの悟浄の遍歴が綴られる。仲間(一万三千の妖怪)のだれよりも繊細で、悩みがちな悟浄には、ぶつぶつ独り言をつぶやく癖があった。
[…]常に自己に不安を感じ、身を切り刻む後悔に苛まれ、心の中で反芻されるその哀しい自己呵責が、つい独り言となって洩れるが故である。遠方から見ると小さな泡が渠[かれ]の口から出ているに過ぎないような時でも、実は彼が微かな声で呟いているのである。「俺は莫迦だ」とか、「どうして俺はこうなんだろう」とか、「もう駄目だ。俺は」とか、時として「俺は堕天使だ」とか。》p135、太字は引用者


ラルフ・エリスン「広場でのパーティー」(柴田訳)

 これもまた、古いものをあらためて掲載、というのに近い。書かれたのは1930年代らしいがはっきりしたことはわからない。
《どうやってはじまったかは知らない。大人が何人かエド伯父さんのうちに来て広場でパーティーをやると言って、ついて来ーいと伯父さんに言われたので大人たちにくっついて暗い雨のなかを駆けていったら広場に着いた。着いたらそこにいる大人たちはみんなカッカしていて何も言わないで黒を囲んで立っていた。》p238

 いや、いやいやいや。パーティーはいわゆるパーティーじゃないのだった。それを子供の目から最後まで描く。しかも脈絡なく飛行機まで落ちる。今号で最大の隠し球。私はこれのあとにパワーズ『われらが歌う時』を読んだので、なおさらクラクラした。すごい。


岸本佐知子「あかずの日記2 四月-五月 パーマ」
《四月二日
 台所に行き、蛇口から勢いよく水を出し、流れに手をかざして「ワラ! ワラ!」と言ってみる。さいきん煮詰まるとやるヘレン・ケラーごっこ。》p198

 日記なのに、なんと前号から続いていた。日記なんだから続くのは当たり前かもしれないが、この人の場合は意外な気がした。1ミクロン単位で進行していることになっている、気の狂ったような翻訳が猛烈に読みたい。


小野正嗣「浦ばなし2 キュウリとニガウリ」

 短篇だが24ページ句点なし。だから改行もない。もちろん読みにくいが、がまんして行をたどっていくと、ところどころであたらしく登場人物が出てくるのが、ちょうど、川の流れからちょっとあたまが出る(そしてまた流れに飲み込まれていく)みたいで面白かった。でも、もう少し読みやすくなるような気もした。

 あと川上弘美とダニエル・ハルムスと…… これだけ書いてもまだ書ききれないボリュームだった。公式サイトに目次があるのでご参考。
 →http://www.villagebooks.co.jp/villagestyle/monkey/contents.html

 文芸誌って、私は「読みたいものが4つ以上ないと買わない」ことにしており、それでもコストパフォーマンスがよくない気がするさもしい人間なので、ぜんぶ読める「モンキービジネス」はその点だけでもめずらしいと思う。これはこれで偏っているのはまちがいない。
(次号、「サリンジャー号」として柴田訳『ナイン・ストーリーズ』を一挙掲載って、どう考えても偏っている。「笑い男」と「エズミに捧ぐ」が楽しみ)

 いろいろある。なのに偏っている。そして表紙がすばらしい。「モンキービジネス」は、そんな文芸誌のようです。

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