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読中日記(6)

■ リチャード・パワーズ『われらが歌う時』は読み終えた。読みながらひしひしと思ったのは、私が想像していた以上にオバマってすごいんだな、ということだった。
 
 まあ、そのことは「訳者あとがき」にも書いてあった。以下、ちょっとだけ内容に触れる。

 つくづく、立派な長篇なのだった。「すげえなあ」と思うのと同時に、「でも予想してたのとはちがうなあ」と感じもした。

 ユダヤ人の父親と黒人の母親。あいだに生まれた3人の子供の成長と遍歴が語られる。なんだか全員が非凡な音楽の才能を持っていることになっている一家のなかでもいちばん図抜けているのは語り手「私」の兄であって、音楽界の階段を駆けのぼる彼の快進撃(プラス「私」の献身)を追うだけで、堂々たる大ロマンになっている。
 でもそれだけではない。
 兄弟の話と並行し、2世代前の祖父母・1世代前の両親の人生がたどり直されるし、彼ら全員の人生と切り離しようのない変化、つまりアメリカで黒人がおかれた状況の変わり具合、変わらなさ具合も、挟み込まれていく。
 いかにもごちゃつきそうなものなのに、ぐんぐん読めるのにまずおどろいた。それは「音楽」と「人種」という、それぞれ大きなテーマが「家族」の話として合流し、全篇を流れているからだろうし、そんな組み合わせをいっぽうで行いつつストーリーも進めていけるパワーズは、やっぱり剛腕だ(組み合わせる過程そのものがストーリーになって、とうとうと流れていくのである)。
 既訳の『舞踏会へ向かう三人の農夫』、『囚人のジレンマ』、『ガラテイア2.2』からすると、同じ作者か、と思うくらい読みやすい。過去のあれこれ(事件だったり、ひとつの台詞だったり)が絶妙なタイミングで再利用される、というような技によって、ページをめくる手はさらに速くなる。さらに、その場で鳴り響いている音楽を文章化してみせる「腕の見せどころ」的な部分が数十ページおきに配置されており、そこの記述はほとんど、小説から別の領域にまで飛びあがりそうになっている。

 この読みやすさを維持したまま、『三人の農夫』みたいな未知の構成を組み立ててくれるのか。ハラハラしながら展開を追っていくのだけど、結論から言って、最後まで「ふつうに読みやすい小説」だった。
 うえに書いたような、「音楽」と「人種」を「家族」でまとめていくという全体の構成、そして離陸しそうな音楽の文章。たしかにこれでも充分すごいだろうが、これらを踏まえたうえでの、小説ぜんたいをちがったものにしてしまう転回は、たぶん、なかった。
 これは意外だった。意外すぎて、読了してしばらく、この日記を書く気にならなかった。最後まで「ふつうに読みやすい小説」として読ませてしまうのがいちばんすごい構成なんだ、とは私は考えたくない。

 いや、難癖をつけているみたいだと自分でも思う。『われらが歌う時』は立派な小説です。 
 もちろん私は、扱っているテーマが「立派」で「深い」からこの小説は立派だ、と言っているのではないつもりでいる。人種なんていう一口では語れない根の深い問題に1000ページを費やし、パワーズは作中に何がしかの足場を作ろうとしている。その意志と見事に両立する、読みやすさと面白さ。なにより、圧倒的な音楽の記述。すごいと思う。ほかのだれにこんなものが書けるか、と根拠もなく思う。だからこの小説は立派だと思った。
 だけど私は、扱うテーマは立派でも深くもなくてよいから、「こんな大仕掛けは見たことなかったよ」とおどろける小説を読みたかった。そういう理由で「立派だ」と言いたかった。無い物ねだり? そうかもしれない。でも、パワーズの小説なら無い物はないんじゃないかと勝手に期待していたのだった。
 あるいは、私に音楽の素養があれば、そちらに重心を置いた読みかたができたのかもしれない。そうすれば『われらが歌う時』の、過去-現在の行ったり来たりや、反復の技法は、「見たこともない構成」としてちゃんと目に見えたのかもしれない。ここは保留。

 以下、箇条書き:
 
・3人のきょうだいは、考えてることも肌の色合い(=黒さの程度)もみんなちがう。白人文化のなかで寵児となる道を(結果的に)選ぶ兄。それを支えながら、やがて生きかたを別にする、語り手の「私」。逆に、その2人を激烈に批判して、黒人による黒人のための社会運動に身を投じる妹(白人/黒人の対立に自覚的でない男兄弟の2人は、その無自覚さをつよく糾弾される。この妹のキャラはかなりきつい)。さかのぼって、この子供3人を「人種問題がなくなった未来」の立場から育てていくことにした、父と母。それを知って母を勘当した祖父。
 こんなふうに、ある立場・ある立場をそれぞれ代表する登場人物たちをひとつの「家族」のなかに圧縮して描く、というやりかたは、それを選んだことじたいがすごいと思う(うまくいくかいかないかはその後の話であって、「そうする」と決めたことじたいがすごい)。
 
・↑こういう書きかたは、寓話的と言っていいのだろうか?
 そう考えないと、小説の最後半、天才的な人間がぞろぞろあらわれるところは読みにくい気がする。
(いっぽう、そこまでに読んだ何百ページかの要請でもって、「ここで音楽の才能のある人間ばかりが出てくるのは、まったく自然」という気もした)
 
・なんだかんだ言って、下巻514ページの盛りあがりには声が出た。
 
・新潮社のサイトに若島正の書評があった。PR誌に載っていたものなので、ひろい意味で「広告」なんだろうけど、さすがにものすごくまとまっているのでリンク。
 →若島正「音楽としての家族年代記」
   http://www.shinchosha.co.jp/shinkan/nami/shoseki/505871.html
  
《いかにもパワーズらしく、この題名には扱われる主題群が集約的に編み上げられている。その主題群とは、「われら」、「歌」、そして「時」である。》

 たしかに『われらが歌う時』で、パワーズは「新しい読者層を獲得する」かもしれない。値段のことを考えなければ、充分ありそうな話だと思う。それで『舞踏会へ向かう三人の農夫』を読む人が増えたらもっといいなと思った。

・まだ、この小説は途中でひっくり返るんだと思って読んでいたころ、その梃子になるのは音楽の記述なんだろうと予想していた。でも、作中で何度も何度も出てきたのは「音楽は無力だ」「音楽で人種を越えたりはできない」ということだった。あるいは、何をもってしても人種をひっくり返すことなんてできない、と。だからこの小説の書きかたはすごく誠実なのかもしれない。でも、でもなあ。
 
・だから若島正には、はやく『黄金虫変奏曲』を読ませてほしい。

・発売直後ならともかく、いまになってもamazonでは書影が出ていない。それに、下巻の「われらが歌う時 下 (3)」という表示はぜったいおかしい。そのうち直るだろうと思ったがまだ直らない。まあ、そのうち直るんだろう。
 
われらが歌う時 上 (1)われらが歌う時 上 (1)
(2008/07)
リチャード・パワーズ

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われらが歌う時 下 (3)われらが歌う時 下 (3)
(2008/07)
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・木曜まで帰省します。
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