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2008/07/05

イサベル・アジェンデ『精霊たちの家』(1982)

espiritus

木村榮一訳、国書刊行会(1989)

《バラバースは海を渡ってわたしたちのもとにやってきた、少女クラーラは繊細な文字でそう書きつけた。その頃から彼女は、なにか大きな事件が起こると、ノートにつけるようにしていたが、その後誰とも口をきかなくなると、日常の些細なことも書きとめるようになった。それから五十年後、わたしはそのノートのおかげで過去のできごとを知り、突然襲ってきた不幸な時代を生き延びることができたのだが、当のクラーラは自分のノートがそんなことに役立つとは夢にも思わなかったにちがいない。バラバースがやってきたのは、聖木曜日のことだった。》p7

 手を触れずに物を動かしたり屋敷に住む精霊と話したり、超常の力をもつクラーラと、その家族の話からはじまる『精霊たちの家』は、奇想天外なエピソードが洪水のように流れ込む日常生活を語り継いで、家のなかから外へ外へと広がり、クラーラの娘、さらにその娘へと3世代をまたいで、何十年と続いていく。それでも、最後まで家族の話である。
 読みはじめるなり無茶苦茶おもしろく、めくってもめくってもおもしろいのでおどろいた。時間さえ許せば一息で読める、そんな気がした。実際には、おもに電車のなかで1週間かけて読んだ。
 
 もの静かながら、おそろしく芯が強いクラーラを筆頭に、その結婚相手で、粗野で短気でエネルギーの固まりのようなエステーバン・トゥルエバや、それぞれの親、兄弟姉妹、乳母、使用人そのほか一族郎党を巻き込んで、次から次に、あちらでもこちらでも、さまざまな騒動が起こる。そのすべてがパワフルで、「いや、待てよ」と立ち止まる間もなく非現実になだれ込む。そんな進みかたであっても、なおかつ、次第に時間は流れ、クラーラは徐々に表舞台から退いていく。
 登場人物が年をとり、世代交代がなされる、ということにしみじみしてしまったのは、彼女があまりにいいキャラだったからだろう。10歳にして「もう誰とも口をきくまい」と決心し、9年のあいだ沈黙を続けたあとでようやく発した言葉が「近々結婚するわ」だった、という1エピソードだけでもおなかがいっぱいだが、それはほとんど、この小説の序章にすぎない。以下は、中盤で彼女が「市内の地図を床の上に広げ、振子を三十センチのところでゆらゆら揺らしながら義理の姉の居場所をつきとめようと」する場面。
《[…]午後のあいだずっとその方法を試みたが、分かったのはフェルラがまだ住むところを決めていないということだけだった。振子では居場所をつきとめられないと分かったので、本能に頼って馬車を走らせて捜してみたが、これもうまく行かなかった。三脚テーブルにも相談してみたが、入り組んだ市街のどこかにいるフェルラのところまで案内してくれるような導きの精霊は姿を現わさなかった。念力で呼びかけても応答はなかったし、タロットカードを使ってもはかばかしい結果は得られなかった。そこで、ごくありふれた方法を用いてみることにした。女友達のあいだを捜しまわったり、御用聞きや彼女と付き合いのあった人たちに尋ねてみたが、あれから一度も見かけていませんね、という返事しか返ってこなかった。》pp132-3

 太字にした箇所以降に私は笑った。最初にやろうよ。
 2段組みで400ページを越える長篇だが、要所要所でクラーラが一族に関する「予言」をつぶやき、語り手も「その意味が明らかになるのはこれから○年後、□□が××したときだった」みたいに煽ってくれるので、そのたびに本の長さが引きしめられるようだった。なるほど予言ってこういうふうに働くのかと思った。
 それにまた、彼女をはじめその娘ブランカ、孫アルバという女性3人の人生遍歴が中心になっているために、じゅうぶん1冊の長篇の主人公になれそうなエステーバンが、あくまで「クラーラの夫」、「ブランカの父」、「アルバの祖父」として、距離を置き眺められるように描かれているのもおもしろい。
 クラーラと結婚するより前から、エステーバンは自分の地所の開拓に心血を注ぎ、農場として発展させる。ここの小作人たちと彼とのあいだのいざこざは何度も繰り返し語られて(ボルシェヴィキどもめ、と彼は怒り狂う)、つねに強権を発動する地主の姿に笑わせられるのだが、後半にいたって様子が変わってくる。
 もともと、南米の一国を舞台に、破天荒な人物と何かを突き抜けた挿話の大盤ぶるまいでありながら、はるか遠くのヨーロッパで戦われた二度の大戦についても言及があるというふうに、『精霊たちの家』は、幻想の一方で現実の歴史にも片足を置いている。エステーバンが保守党の議員として国政に加わるあたりから、小説は急角度で歴史へ向かっていく。そうなる前、この小説の基調になっているのは、これくらい奔放な書きぶりだった。
《[…]入り組んだ道を通ってこっそり国境を越えてやってきた何組ものインディオたちがジャン・ド・サティニのために働いていたのだ。彼らは、身分証明書のたぐいはなにひとつ持っていなかったので、人間であるかどうかも分からなかったし、口数がすくなく、粗暴で、何を考えているか分からないところがあった。》p247

 後半になると、これとほとんど変わらない筆致で、政治・革命・民主化・弾圧・拷問などなどが怒濤のように描かれていくのである。夢のようなヴィジョンに代わって、陰惨な火の手があがり、実際に発生する(それに幾つも発生する)苛酷な出来事の前に、精霊の力はほとんど無力である。
 ここを書くために前半があった、と読んだらあまりに失礼だろう。正直、私は本篇のあとの「訳者あとがき」を読むまで、作者のイサベル・アジェンデが南米は南米でもどこの国の人で、どんな家柄だったか知らなかった(ウィキペディアにだっていくらか書いてあるのに)。そんな人間にも、家族の話が、家族の話のまま国の話になっていく、これだけの物語を夢中になって読ませるのだから、小説というのはおもしろくて危険なものだとつくづく思った。

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