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2008/07/01

現代文芸論研究室主催 世界の文学とラテンアメリカ


 6/29(日)、東大の本郷キャンパスまで行ってきた。小雨。

 (このイベント→ http://www.l.u-tokyo.ac.jp/genbun/latinamerica.html

 会場は階段状の大教室だったが、開演15分前に入ってみると、8割がた埋まっている。はじまってからもポツポツ人が入って、結局、ほぼ満員になった。学生が多かったのかどうか。年齢も国籍もいろいろだった模様。

 第1部は野谷文昭+桜庭一樹の対談。
 休憩後の第2部では、この2人に沼野充義・柴田元幸が加わる。
 
 前半は、『赤朽葉家の伝説』の作者としての桜庭一樹に、野谷文昭がインタビューするような感じで進む。野谷文昭、壇上にあがってマイクをいじりながら最初の一声が「フィデル・カストロという人をご存じですか?」だったので笑った。そんなのありか。
 私は『赤朽葉家』を読むのが間に合わなかったので(先週はアジェンデ『精霊たちの家』を読むのでタイムアップ)、聞いてしまっていいのかという気もしたが、どうだろう、熱烈な桜庭読者であれば「もう知っている」話が多かったのじゃなかろうか。私には面白かったわけだが。辺境(南米)から都会(ヨーロッパ)に出て、外からの視点で故郷を再発見する、という構図を、鳥取 → 東京に重ねる話が何度も繰り返されていた。
 南米小説の特質とは、みたいな突っ込んだ話にはあまりならず(そうなると私はついていけなくなるし)、あれらの小説を読んで、こういう書き方もありなんだ、と教わってきたという桜庭一樹の読書遍歴など。
「じつは、ヴァージニア・ウルフも勝手に南米の抽斗に入れている」という発言が「それは正しい」とお墨付きをもらっていて、さすがだと思った。
(たしか、ガルシア=マルケスはかなりウルフを読んでいたとか)

 第2部も、マジックリアリズムという言葉は研究書ごとに定義がちがうから深入りしないようにしましょう、みたいな姿勢で進む。南米と言ってもいろいろあるわけだが、限られた時間では(それに、私みたいな一読者も参加できる開かれたイベントであるからいっそう)、『百年の孤独』はやっぱりすごい、という話に終始した感。あの無茶苦茶に有名で、さんざん引用されてきた冒頭の一文、
《長い歳月がすぎて銃殺隊の前に立つはめになったとき、おそらくアウレリャーノ・ブエンディーア大佐は、父親に連れられて初めて氷を見にいった、遠い昔のあの午後を思い出したにちがいない。》

 柴田元幸がこれを取り上げて、いきなり「長い歳月」を設定するこのような書き出しは、北米の作家にもイギリスの作家にもできない、みたいなことを言っていて面白かった。この発言があった途端、まわりの人たちが揃ってノートにメモっていたのも面白かった。

 桜庭一樹が、読者には海外小説を読むような気持で自分の小説を読ませたい、日本を舞台にしても、それを外国のように見るだろう未来の読者に向けて私は書いている(大意、ちょっとちがっているかも)みたいなことを言っていたのを受けて、質疑応答で、壇上の教授3人に「翻訳するときは未来の読者の目を意識しますか?」という質問が出た。「翻訳者は現代の読者しか考えません」(たしか沼野充義)。
 それでも、現代の言葉をばんばん使うかというとやはりちがって、20年だか30年は残ると思われる言葉だけ吟味して使うという方針を立てている野谷文昭は、口語表現の多い作品を訳した際、「ウザい」「キモい」を使いたくなったがそこはぐっと抑え、ただし「マジで?」だけは使ったという。「あれは残ります」。なるほど。

 あと、読む速さにけっこうちがいが出る『百年の孤独』と『族長の秋』で、書く速さはどれくらいちがったのか、とか、ガルシア=マルケスの何がすごいって、まだ生きてるのがすごい(南米は神話になるのも速いのか)、とか、変な小説を書くうえで辺境 → 都会の移動が必須のわけではなく、たとえば岸本佐知子を見ろ、とか。最後に、4人それぞれがお気に入りの南米小説から一部を朗読して終了。雨はまだ降っていた。
 
 東大は広かったがトイレは小さかった。休憩時間、一緒にさまよって別のトイレを見つけてくれた男の方に感謝。とりあえず私は、買ったまま部屋に積んである南米小説を、月に1冊くらいは読んでいこうと思った。

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