趣味は引用
実在しない作家が実在する 続きの続きの続きの続き
バートルビーと仲間たち

前回

 たまたま知ることになった、B・トラヴェン(トレイヴン)という作家のことからずるずる書いてきた。なにしろひとつも作品を読んでいないので、もう書くことがない。『バートルビーと仲間たち』では、映画の件のあとも、少し記述が続いている。
《最後まで正体を明かさなかった作家トレイヴンはフィクションだけでなく現実の世界でも本名を隠すために気の遠くなるほど多くの名前を使っていた。トレイヴン・トースヴァン、アーノルズ、トレイヴス・トースヴァン、バーカー、トレイヴン・トースヴァン・トースヴァン、ベリック・トレイヴン、トレイヴン・トースヴァン・クローヴス、B・T・トースヴァン、レット・マラット、レックス・マラット、ロバート・マラット、トレイヴン・ロバート・マラット、フレッド・マレス、レッド・マラット、リチャード・モーアハット、アルバート・オットー・マックス・ウィーネッケ、アドルフ・ルドルフ・ファイゲ・クラウス、マルティネス、フレッド・ゴーデット、オットー・ウィンケ、レインガー、ゲッツ・オーリー、アントン・ライダーシュダイト、ロバート・ベック=グラン、アーサー・ターレルム、ウィルヘルム・シャイダー、ハインリッヒ・オットー・ベイカー、オットー・トースヴァン。
 国籍は名前ほど多くはないが、それでも少なくはない。彼は自分はイギリス人、ニカラグア人、クロアチア人、メキシコ人、ドイツ人、オーストリア人、アメリカ人、リトアニア人、スウェーデン人だと言っていた。》pp212-3

 この部分、読んだときにはざっと眺めただけだったが、いま、一字一字書き写した私は、この28個の名前の連続に、韻を踏みながらちょっとずつ変化していくような、いわばリズムがあるのに気がついた。
 1969年の死後、彼の伝記を書こうとした作家もいるという。なんて無謀な。
《書きはじめた時点でロサ・エレーナ・ルハン(※トレイヴンの妻)の協力を得たが、すぐに未亡人自身もトレイヴンが誰なのかはっきりつかんでいないことが判明した。さらに、トレイヴンの義理の娘までが、父親がハル・クローヴスとしゃべっているのを見かけたことがあると言いだしたために、収拾がつかなくなった。》

 エンリケ・ビラ=マタスも、というか、ビラ=マタスが小説『バートルビーと仲間たち』の語り手として設定した人物も、収拾をつけていない。ひとりトレイヴンだけが勝ち抜けた感がある。じっさいそうだったんだろう。若いころアナーキスト活動をしていたらしいが、結局よくわからない。いや、もしかすると本当は正確な伝記があるのかもしれなくて(そしてネット上でも読めるのかもしれなくて)、ビラ=マタスが小説を面白くするために嘘をついているのかもしれないが、ここは鵜呑みにして騙されておきたい。『ラブストーリー、アメリカン』の、「ビッグ・ベティとミス・キューティ」から。
《[…]ロロはトラヴェンの小説だけでなく、この作家が繰り返し述べている言葉を気に入っている。作品を作った人間はぜんぜん重要ではない、作家の生涯ではなく作品のみが吟味されるべきだ、そう述べている。むろん、トラヴェンは偏執症的になり、若い頃の生活や犯罪扱いされたかずかずの行動が明かされるのを気にしていた。あれこれの扇動行為を、いまでも彼のしわざと考えられるかどうかは怪しい。しかしながら、自分を虚構化した「誰も知らない男」は、造り手の無意味さを基盤とする哲学に発展した。
 そこが、ロロには意味があった。車を走らせつつ、完全に匿名となり、自分にしか知られていないということは、この世で最悪の条件ではないだろうと、彼は確信した。そういうふうになれば、真実は消滅するだろう。そして人生の冷厳な証拠のみが、もっと大きな真実が残るだけになり、再吟味という不要の苦痛をしないですむ。人生そのものがむずかしいのだ、と、ロロは思った。回顧的な調査は本物の価値あるなにものをも明らかにしない、それをトラヴェンは知っていた。だから最善をつくして自分の起源を隠匿した。》p62

 ここで言われている内容はあまりよくわからないものの、だれでも思うことだろうけど、自分の足跡を力ずくで消し去るのに成功した作家として、B・トラヴェン(トレイヴン)はたしかに存在を刻んだ。ピンチョンでさえ、まだ甘いようである→有名な、「シンプソンズ」に本人役で登場の場面。声が出ます)

 そういえば、トラヴェン(=トレイヴン、って、もうどっちでもいいだろう)と同じく、私が一作も読んでない別の作家に、こういう告白があったのを思い出した。一見、トラヴェンと真逆の態度なのだけど、問題になった自伝についての、さっき見つけたこういう書評(by奥泉光)を読むと、「隠し通す」と「告白する」のちがいって何なのよ、という気にもなってくる。
 こう書いてくると、読んでいる最中は「めちゃくちゃ面白い」とまでは思えなかったビラ=マタス『バートルビーと仲間たち』は、けっこう面白い本だったような気がしてきた。でもその面白さはビラ=マタスに帰せるものではない気もする。およそ何のまとめもないが、いちおうここでひと区切り。
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