趣味は引用
ウラジーミル・ナボコフ『ディフェンス』(1930,1964)
ディフェンス
若島正訳、河出書房新社(1999)
《「神様どうしが戦うゲームです。無限の可能性があって」》p41

 ロシアに生まれたルージンは、内気で生きづらい少年期の最中、たまたまチェスに出遭い、才能を発見されて一躍ヨーロッパにその名をとどろかす。しかし30の坂を越える頃にはかつての閃きは失せ、チェス以外は無能の男としてみじめな生活に足を踏み入れつつある。そんな時、一人の女性が現れて、この不器用なプレイヤーの世界に介入しようとする……
《ばかげた質問だと充分に承知しながらつい自分を抑えられずに、どれくらい長くチェスを指していらっしゃるの、と彼女は訊ねた。彼は答えずに後ろを向き、彼女はすっかり恥ずかしくなって、昨日、今日、明日の天候を並べたてはじめた。彼が黙ったままだったので彼女も黙りこみ、それからハンドバッグの中をがさごそして、必死になって話題を探そうとしたものの見つけたのは折れた櫛だけだった。突然彼は顔を彼女に向けて言った。「十八年三カ月と四日」》p88

 いわゆる「あらすじ」でいえば、物語が大きく動き出すのは、全14章中で6章を数えたこのあたりからだ。しかし、ナボコフの仕掛ける手練手管は、冒頭から読者をとらえて放さない。
 冒頭? 急ぎすぎた。これは、チェスマニアのナボコフがロシア語で書いて、のちにみずから英語にしたものを、同じくチェスマニアの若島正が日本語に翻訳した小説である。6年前の出版直後、大学の文学部にあった生協書籍部で平積みになっていたのを手に取って、「でもおれ、チェス知らないし」と台に戻したことまで私がおぼえているのは、白と黒の表紙に巻かれた赤い帯が印象的だったからだろう。大学構内の閑散とした空気からいって、季節は冬ではなかったか。
 そんなふうに大なり小なり「昔の記憶」に固執しがちな人間に対し、ナボコフの小説は猛威をふるう。はじめの数章を占める、ルージン思い出のロシアはどうだ。そこには見たことのない色をした日の光が鮮やかに射し、嗅いだことのない床板の匂いがやわらかくたちこめ、入ったことのない黴臭い屋根裏部屋がじっとこちらを待っている。動悸まで早くなるような、「自分の持っていない思い出が刺激される」この感覚は本当に不思議だ。描写されたイメージが、こちらの持つかすかな素材をとっかかりに、記憶として押し寄せてくる。

 しかし『ディフェンス』は、思い出に浸るだけの(それでもすごいが)小説ではない。
 たとえば、時間の飛ばしかた。懐かしさに彩られた少年期に続くはずのルージンの思春期・青年期は大胆に省略され、色白の少年の次に読者の前に現れるのは、不潔な肥満体の男である。小説の後半はこちらを「現在」として、中年を迎えつつあるルージンに寄り添い進んでいく。
 少年と中年のあいだにあったはずの、ルージンがチェスプレイヤーとして名を上げていく過程の出来事は、二流の作家だった彼の父親が、遠い存在になった息子――興行師めいたマネージャーに連れられ異国を旅して回る――をモデルにあたらしい小説を書こうとした、その夢想だけで伝えられる。しかもその短い描写にさえ、息子をついに理解することができず、それでも誇らしく思っていた父の気持が塗り込められている。
 一事が万事この調子で、この小説には、どこをとっても内容を伝えるだけの透明な部分がない。ひとつひとつの記述が、それ自体読み解かれるべき、ときには全体と照らして読み直されるべき飾りの入った切り子ガラスのような細部として配置されている。
 登場人物の郷愁や母性といった、こちらの情に訴えかけるものまでも、最大の効果をあげるよう計算した小道具・小芝居に溶かし込み利用する作者によって、無垢なルージンはひとり、正気と狂気の曖昧な境を歩かされる。いくつもの国際試合をたたかい、目隠しをして同時に三十人の相手とチェスを指すうちに、《チェスの概念の世界》が現実と入れ替わっていく。よどみ、混濁したルージンの知覚を写し取る訳文には、一点の曇りもない。
《彼の意識の光線は、周囲の完全にはわけのわからない世界と接触すると散乱する傾向があり、それで威力の半分を失ってしまうのに、その世界が溶けて蜃気楼となり、もはや心煩わされることもなくなったので、いっそう集中した強い光となっていた。現実世界、すなわちチェスの世界は、秩序に満ち、明快で、冒険に富んでいて、自分がその世界を簡単に支配し、すべてが彼の意思に従い彼の計略に頭を垂れることに、ルージンは誇りを感じた。》p135

 主人公を脅かす極度に観念的な世界をいっぽうに紡ぎながら、小説は、同じくらい極度に通俗的な三文芝居でもって、彼を二重に翻弄する(第10章の最後で「彼女」の母親がつぶやく、ベタな上にもベタな台詞を読んで私は悶絶した)。
 チェスの試合を音楽の喩えで描くような技巧と、メロドラマ仕立ての展開を存分に味わいながら、私たちが気付くのはこういうことだ。つまり、小説には作者がいる。

 この『ディフェンス』で、主人公を次から次へとピンチに陥れ、読者をはらはらさせる作者の手つきには、自分の力をたっぷり楽しんでいるようなそぶりさえある。小説は作者の意のままのものであり、充分な技量を有した作者であれば、小説を通して読者をさえ意のままに操れる。そんなことはいつだって承知しているつもりでいても、私たちは繰り返し足元をすくわれる。それは、当然のことながら小説は(読者ではなく)作者が作ったものだからだ。私たちは、足元をすくわれてはじめて作者の存在を知る。
 しかし、読者よりはるかに視野のきかない作中のレベルに立ち、人生を「運命を相手に指すチェス」ととらえる幻視者ルージンは、そのことについて何ひとつ語らないものの、そこかしこに現れる徴候から、明らかに「超越的な何者か」の気配を感じ取っており、最善の対抗策(ディフェンス)を編みだそうとする。登場人物がおのれの世界の彼方に見るのはただ一人。ここに、つまり小説のなかに、作者とチェスを指す主人公という構図が出来する。奇観というほかない。
 もちろん、この奇観を演出したのが作者なのだから、すべてはルージンに手の届かない場所で仕組まれた一個の完結したフィクションであり、登場人物が作者の支配から逃れる術はない。何に気付こうとも、どこまで意識しようとも、彼が盤上の駒でしかないのは変わりがない。最後のページで彼に起きる出来事は、救済でさえあるだろう――そこで小説は終わるのだから。このチェスに《無限の可能性》は、ない。

 それなのに、なぜだろう、主人公を一手一手追いつめる作者のやり口が冷徹を極めるほどに、両者のあいだの越えがたい距離を思い知らされるほどに、彼らの関係は親密なものに見えてくるのである。徹底的に痛めつけることが登場人物への作者の慈愛なのか。サディズム? いや、まさか。
 この反転が何に発するのか、作者は語らない。ルージンは語れない。ひとまず私は、「この小説にはルージンを憎む人間が一人も出てこない」点をもって何かの糸口にしたいが、これはむしろ、私の甘っちょろさを晒しているだけかもしれない。

 この本一冊のなかに折り重ねられた二重三重の世界、あちこちに置かれた記憶への入り口を読み取るのには、特殊な電子機具が必要なわけでもないし、秘密のメッセージがあぶり出しで書いてあるわけでもない。
 すべてはページの上に印刷され、開かれている。ただ読めばいい。
 これは本当にすごいことだと思う。必読。


…追記

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